陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

土日か。

 土日か。なんだかな。

 

 あまりやったことがない作業をしていて、捗らない。実力的にできるとは思うが、細かいことを考えるのがめんどくさくて進まない。今までしばしばやってきた作業なら迅速にできるが、やってこなかった作業は上手くできない。これではあまりにへなちょこだ。。やったことがない作業もなんとなく勘を掴んでこなせるようになれば、どうにか楽にやっていけると思うんだが。まあ仕方ない。ちょっとずつやろう。という訳で日中結構ぐだぐだサボっていることが最近多い。いやサボるのは前からだけど最近特に酷い。そういう時期でもあるのかもしれんが。労働したくない。

 労働か。前ほどには労働の愚痴を書かなくなった気がする。いや気のせいかもしれん。最近はお客さんの方で作業進捗が滞っていてこっちが動けなかったり、動いてもプログラム実行待ち(動作確認、データ確認)ばかりで、穏やかだからな。決して自分に実力が付いた訳ではない。実力、、つければ楽しいんだろうがつけるまでが苦しい。そもそもの興味関心がないとね。。

 

 ツイッターでは性懲りもなく、人間の能力だの成功だのは努力で決まるのか、遺伝と環境で決まるのか、という議論(?)が活発だ。ブルシットジョブという言葉があるのだし、ブルシットクエスチョンという言葉もあっていいのではないか。クソどうでもいい問いだ。そんなもん両方大事に決まっている。

 どうも成功した人間は「仮に違う遺伝子を持って違う環境に生れたとしても、私は成功するはずだ、何故なら努力するから」と言いたいらしいし、成功していない人間は「仮に違う遺伝子を持って違う環境に生れていれば、私は成功するはずだ、何故ならそういう遺伝子と環境あってこそ努力することもできるのだから」と言いたいらしい。しかし実際のところ違う遺伝子を持って違う環境に生れたら、それはもう「私」の話ではなくなってるのであってな。――「もし違う遺伝子を持って違う環境に生れたら」という仮定自体が全く無意味だ。そんなことは不可能だからだ。仮定をしても、その結果は「分からない」としか言えない。「現にそういう異なる遺伝子や環境の他人がいて、そいつを例にとれば結果は想定できる」というように考えているらしいのだが、その他人はそもそも「私」じゃないだろ。お前自身がそいつになった場合にどうなるかなんぞ分からんだろうが。――それとも現に生きている他人に憑依するような形で、完全になり替わる想定なんだろうか? そうした場合、憑依する自己は内容を持っていないのだから、記憶も全部その憑依先の他人のものに入れ替わってしまうだろう。つまり、憑依したことに自分で気付けなくなるはずだ。だからやっぱり「違う遺伝子を持って違う環境に生まれる」想定が成り立たない。

 ――いや、まあ、そういうことじゃないんだろう。特に「遺伝と環境」派が言っているのは、「自分は努力したから成功したのだと言っている奴だって、ちょっと脳味噌をつついて意欲を出せなくしたり知能を低くしたりしてやれば、今まで通りには行かないだろう。努力する気がしなくなったり、努力しても成果が出なくなったりするだろう。そういうのは全部身体に制約されるのだ。だから妙な精神論をやめろ」という話なんだろう。私もこれには賛成だ。これに対して「努力」派が言っているのは、「どういう脳味噌を持って生まれるにしても、努力や工夫をすることで能力が向上するということの一般性は変わらないのだから、誰でも今よりましになりたかったら努力するべき」という話であって、これもまあ普通のことだ。一般性は一般性であって、特殊を忘れちゃいかんのだけども。

 どちらにせよ、こういう問いは結局のところ「困窮していく社会において誰を助けるのか。努力した者をか? 遺伝と環境に恵まれなかった者をか?」というこれまたクソな問いに端を発するものだと思う。両方助ける必要があるのは言うまでもない。