水曜も生きた。
んん、、結局真面目に一生懸命やると一番苦痛が少なくなるような仕組みになってるんだよなあ。。勤めている以上は真面目にやるのが結局一番楽であるということを、何年もかけて教育する場でもあるんだな、職場というのは。
もう完全に興味ないんだよなあ。興味ないことでスキルアップとか意味わかんねえよなあ。アップしたスキルでやることが結局労働じゃなあ。
普通は多少なりとも労働に充実を感じて、まあ労働自体を楽しめなくてもせめて稼ぐことには喜びを感じで、そんで研鑽して積極的に取り組んで、引退したら良い思い出が残る、とかそんな感じなんだろうかなあ。きっついよなあ。このノリ。
届いた中古本の224ページと225ページの間になんか灰色の、柔らかい何かがついて紙がくっついていた。なんだこれ。まあいいか。慎重に拭き取った。
ものの弾みで『ツァラトゥストラ』を少しだけ読んだ。なんか気分が明るくなるようなこと書いてないかなあと思って。んん、まあ、よくわからん。
・・・かくて、人間たちのあいだにあって衰弱したくない者は、どんなコップからでも飲めるようにならなくてはならない。また、人間たちのあいだにあって清潔であり続けたい者は、たとえ不潔な水であろうと、それでからだを洗うすべを心得ていなくてはならない。
かくて、わたしはしばしば、自分を慰めて次のように語った。「さあ! さあ! 古なじみの心よ! おまえは一つの不幸を免れた。このことを、おまえの――幸福として楽しめ!」(「人間と交わるための賢さについて」)
不潔な水を浴びても清潔でいられる術を身に着けろってさ。はあ。。
まったくニーチェに元気だの勇気だのを貰いました、とか言ってる奴は一番信用できん。
ニーチェが好きですって言われたらとりあえず警戒しますね。ニーチェのどこが好きなのかによりますけどね。
「永劫回帰」とか「権力への意志」はまあ良いんですよ。純粋に哲学的な原理を言おうとしてるだけですし。
万物は力を増大しようとしています、その相互作用によって世界は動きます、私もまた力を欲しています、その力の最高の表現が永劫回帰です。。永劫回帰を前提すれば、何度この生が回帰してきてもそれを肯定できるように、素晴らしい生を自ら創造していこうとするでしょう。その創造作用こそが世界の本質であり私の本質であり、自己超克であり、一切の価値が否定されたところから新たな価値を生み出す瞬間であり云々かんぬん、っていう、これは分かるのです。
分かるんですけど、そこからキリスト教批判に行くとよくわからなくなります。「弱者もまた強くなろうとしている!」「強者に勝つために道徳を捏造し、本来あるべき価値を転倒している!」みたいな非難をするんですけど、弱者が弱者なりに戦って何が悪いんだろう、、?と思うのです。そこは肯定しないんだ。。っていう。まあニーチェって、あらゆる価値の否定、一切平等と、強烈な価値付け、創造がどうのこうのっていうのを極端に行ったり来たりする人だから、どこからどう見てもそれは半面でしかないのですけれど。それにしてもなんか、半分以上は自分の趣味の話しかしないですからねえ。ニーチェを読んでると大抵最後は「付き合いきれない」という感想になります。