陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

こんなことを一昨日書いていたのを忘れてた。

 よくわからんが投げとこう。

 

 前にも書いた超つまらん駄洒落だが、人はイキるために生きているのだろうか、と定期的に思う。「成功」すると傲慢な気違いになるし、「成功」しないと拗らせた気違いになるし。何事も控えめにやっていきたいもんだ。

 

 人の一生というのは「本人の意志」「環境(遺伝含む)」「他者との巡り合わせ(運)」の3要素で決まる訳だが、「意志」と「環境」はどちらかに還元されてしまうことが多いようだ。本人の意志、自己形成の積み重ねが人間を作り、そうして自分で作った人格によって環境に対処していく。だから自分の人生の責任は自分にある。と同時に、最初から与えられた気質(遺伝)が様々な経験をしていくだけで、結果は必然だと捉えることもできる。こっちは決定論だ。

 決定論で考えると、「じゃあ最初から「悪い」遺伝子を持って生まれてくる子供を減らしましょう」となって優生学になる。それではまずいので本人の自由意志というのが大事だという話になる。優生学が何故駄目なのかというと、遺伝子が良いとか悪いとかいうのは本質的なことではなくて、ただその時の社会状況、周囲の人間との関係によって生きやすかったり生きづらかったりするだけなのだという視点が欠けているからだ。つまり「他者との巡り合わせ(運)」が大事だということが忘れられているからだ。生きづらい!と声を上げればそれに対する反応が起こり、改善されて結果として生きやすくなるかもしれん。そういうのを相互作用と言うのであり、だから本質的な生き辛さなんぞある訳がない。生きづらさにも色んな対処の仕方があるはずで、そこに本人の意志と周囲の意志の問題がある。

 というわけで意志と環境は還元し合う関係にあるが、こういうのはそれぞれに意志と環境を持って生きてきた人間相互の巡り合わせ、偶然、運の問題で、無視されがちだ。これは誰にもコントロールできない部分だから、取り沙汰しても仕方がないという発想があるのかもしれない。意志があると言っても自由になるのは誰でも自分の意志だけで、自分以外はどうしようもないし。環境を整えると言っても、その中でどういう巡り合わせがあるか事前に計算し尽くすのは不可能だし。計算不可能でもとにかく、良縁が比較的できやすい環境をみんなで作っていこう!と考えるとやっぱり意志の問題になるし。

 どうも意志を問題にすると「それぞれ勝手に頑張れ! 自己責任だ!」という方にぶっ飛んでいきがちだし、環境を問題にすると「全ては初めから決まっているからどうしようもない! これが現実!」って方向に嵌っていってしまうし。意志と必然の関係、意志と意志の関係がより重要だと思うのだ。こういう巡り合わせの概念に重点を置くのが、仏教の縁起の概念でもあると思うんだが、仏教も近年元気がないからなあ。

 ――とかく人間の一生は単なる物理現象ではないし、単なる物理現象として見る場合でもそれは飽くまで人間的な視点からしてそうなるのだ、という当り前のところを忘れんようにした方がいいなと思った。

 

 そういえば私はあんまり多くの種類の人間と接してこなかったなと思った。小中学校は地元の公立だったけど、そこまで多様性は無かった。多少頭が悪かったり、多少荒れていたりする子はいたけど、ガチの知的障害とかガチの不良・反社会性人格とかはいなかったように思う。見てなかっただけかもしれん。なので本当に単純な悪意・シンプルな暴力というのに晒されたことがない。これは幸運なことではあるが、そのせいで人間観に歪みが出てないかは心配だ。