陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

東谷優希「「聖なる残忍さ」の問い」

 ニーチェについての論文を読んだ。東谷優希「「聖なる残忍さ」の問い」(2021)。

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ニーチェ哲学は障害者差別を肯定しているのか?という問い。そして、ニーチェ自身は障害者・健常者の別を問わず生そのものを肯定しているし、寓話を通して障害者差別を告発してもいる(ように読める)、という答え。面白かったけど納得はいかない。

 

 私の嫌いな、ツァラトゥストラ「救済について」について言及がある。健常者の価値判断に合わせて障害者から障害を取り除いてしまうことこそが実は障害者を内心で差別していることになるのだ、というようなことが書いてあった。

ツァラトゥストラが病や障害を癒すことを拒絶した理由はここにある。奇跡を行うことは同情に過ぎない。そして「同情」とは、「何ものかを自らの機能につくり変えようとする」「強者」の意志である(FW118 )。それゆえ「不具者」たちへの同情は、強者が「力の感情」を享受している既存の価値評価の裡に彼ら彼女らを参画させることに他ならず、延いてはその生を価値によって抑圧させる途を開くことになるだろう。

そういうもんなんだろうか。実際の障害者からすると、「あなたはその障害・病気を肯定できるような価値評価(あるいは脱構築法、生をある価値観から裁くことを止めるという価値観)を身につけるべきです。よってその障害・病気を治すことは、できるけどいたしません」って言われた場合、「そうなんですか。その通りですね!そこまで考えていただきありがとうございます!」っていう感じになるんだろうか。確かに障害があろうが病気だろうが気の持ちようで幸福に生きることはできるだろうが、それにしたって腕はないよりあった方が便利だし、骨は丈夫な方が良いし、体が思い通りに動くのは端的に良いことなんじゃなかろうか。価値観をこねくり回してどうにかすればいいとは思えない。価値観でどうにかすべきなのは、どうしたって治せない、もうこれでいくしかない、ってなった後の話だろう。ツァラトゥストラに奇跡を行う能力が実際あったかがまず疑わしいが、あったなら、当事者が望んでるんだから、治すべきだろう。

(もちろんこの論文はニーチェ哲学・作品の読み方を示しているだけで、それで実際に何をどうすべきなのかは全く問題ではない。。)

 

 いや、まあ、実はそこは割とどうでもいいのだ。私は今のところ健常者だし、何にしても語る権利がないように思う。それより、一番あかんやろと思ったのは結論の、どんな生であろうと肯定できるような境地に至れば、その境地からは子供を産むこともまた肯定されてくるだろう、みたいなことを言ってる箇所だ。

「生」が爾余の価値よりも「上昇」したとき、「運命愛」の境地、「子を儲けるべき」境地へと至るだろう――

 親がそういう境地に至っていたとしても、子供がそういう境地に至れるとは限らないのだが、どうなのだろうか。ここでも別種の価値観の押しつけが発生している。「私は優生思想を乗り越えたので、子供を産むにふさわしい!」っていうのは言ってることの質が優生主義者と実は同じだ。第一に生まれる子供の側の意見が考慮されていない(この点では「障害者は幸福になれない」と主張する優生主義者の方が、子供を気遣っているのでまだマシ)。第二に結局どちらも子供を産むのに何らかの条件なり境地なりが要ると思っている。

《この寓話で描かれているような幼子を持つことをあなたは意志することができるか》、あるいは《この幼子のような生を生きることをあなたは意志することができるか》―「聖なる残忍さ」という寓話は、こう問うているのである。

違う。問われているのは、《この幼子のような生を生きることを「この幼子は」意志することができるか》だ。もちろんこれには答えられないので、大事を取って産まない、というのが理性的な結論だ。そしてもしそれでも産むとしたら、それはもう理屈抜きの勢いで産まねばならない。「優生思想を乗り越えて~」とか「どんな生でも素晴らしいから~」とかの理屈はむしろ無い方がいい。そんな正当化を試みるくらいなら、「何となく」と言った方がまだ押しつけがましくない。子を儲けるべき境地というのはむしろそういうもんだと思う。