陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

りょ

 この土日は旅行に行ってます。


 出発は10時半くらいだったか。昨日はブログ記事を投稿した後、勢いで色々読んだり考えたりぼーっとしていたら4時になり、それから寝て9時に起きた。眠い。


 家から持って出たパンを食いながら、途中のコンビニで買ったコーヒーを飲む。


 高速道路。渋滞はそんなでもない。停止はせずに進んでいる。


 秋の空だ。雲が高く模様が綺麗。


 13:20頃、サービスエリア。裏口から出たところの景色がいい。秋の刈り取り後の田園風景。うちの地元も昔はこんなだったと祖母が言う。

 客層悪くなったか? クソみたいな喋り方をする若い男の集団が目立つ。そうか、こいつら学生か。9月10月は大学は休みだけど世間的には稼働してるから旅行に行きやすいんだな。

 13:50出発。


 15時宿に到着。なんかここも客層悪いな。


 血糖値が下がってきたので饅頭を食べます。

 

 露天風呂は緑が綺麗な岩風呂だった。もみじもあったが流石にまだ紅葉はしてない。うるさい二人組が入ってきたので中へ。

 内風呂は天井が高く木の匂いが素敵。


 それにしても、男女平等があれこれ言われるようになってなお、男湯の温度を測る人がおばさんなのはどういう訳か。逆だったらやばいと思うが。……いや、逆じゃないからやばくないのか。誰も文句言わないなら変更もされないわな。


 中庭が整備されていて良し。ただお互いの写真を撮りまくっているカップルが邪魔だ。


 17時、部屋で寛ぐ。おやつ。スミノフアイスを飲み、コンビニで買ったビーフジャーキーと煮卵を食う。


 20時食事。嫌いな食べ物が多いので、こういう宿の懐石料理みたいなのは正直苦行だ。だらだら長いのも良くない。会場はザワザワうるさいし、疲れる。


 私と同じくらいの年代でカップル2人連れできている人とかを見ると、今だに両親と祖母と4人で旅行に来ている私は多少の恥、というか決まりの悪さを感じる。むしろ孝行者ではないか、という見方もできるが。まあいい。それぞれだ。


 今読んでいる本はでかいので、持ってこなかった。代わりに文庫本を。


 元々負けん気の強い性格ではないので、人と比べてどうこうというのはあまり気にならない。のだが、周りから人と比べられることはあり、そういう時本人も負けず嫌いな性格な方が良いのか、そうでない方が良いのかはよくわからない。

 本人が負けず嫌いなら、そういう性格なのに実際勝てていないのは苦しいだろうが、しかしその人は比較してくる周りと正に同じことを考えているわけで、そっちの抵抗感は少ないと思う。価値観を共有できているからだ。

 本人が負けず嫌いでないなら、実際負けていても大して気にすることはないだろうが、比較されること自体は苦しい。価値観を共有できていないこと自体が苦しいし、自分はこれでいいと思っているのに、周りからは「所詮お前はその程度だ」と見下げられていることが苦しい。そして厄介なことに、「私は別に気にしていない」というのを主張するとただの負け惜しみに聞こえるのだ。自分でも負け惜しみに聞こえてくる。周りの声に侵食されて、内心に矛盾が生じる。


 『方丈記』の鴨長明もこういう心境だったんだろう。自分の生活に自分では満足しているけれど、人によってはこれを見て蔑むこともあるだろうと思うと、嫌な気持ちにもなる。

 「自分的に満足している・していない」という評価軸があり、「世間的には名誉である・恥である」という軸もあり、どちらか一辺倒の主張をする人が多いように思うが、両方の視点を忘れないのが正気な人間だと思っている。


 ここでニーチェの話に繋げるなら、権力への意志っていう概念は、

 第一に「全ての存在者が(ということは、世界内のどの部分をどう切り取ってもその部分は)価値評価を行っており、自己を強化するように動いているということ(無数の解釈があり、無数の力関係があること、相対性)」をまず事実として認めようって話で、

 第二に「それら全ての価値評価の必然性がそのまま運命であり、善悪の彼岸においてあることであり、正当化されうる(だから私も私の解釈を正当としてよい)ということ」をメタな事実として認めようって話で、

 第三に「……というメタな認識を私は価値評価として持っているが、これもまた力を求めるある権力量子における一個の解釈に過ぎないということ、つまり解釈はどこまでも有限的、相対的、仮定的であるということ」をさらにメタな認識として認めようって話で、

 故にニーチェ的には

 自分を見失わないようにする姿勢(他から自己を守る防御の姿勢。だからあまり同情してはならない。人間に同情し過ぎた結果神は死んだ。)と、

 自己に関する限界・相対性・別の可能性を担保し、自己を突き放し、超克していこうって姿勢(自己軽蔑、没落、危険に生きる姿勢、超人)と、

 それら両面を取り零さないことにより世界を総体的に理解・肯定する姿勢(善悪の彼岸、運命愛、永劫回帰、遊戯)

 の複雑な展開と、複雑さ故に浮かび上がる「正気」のイメージと、またそれを徹底する「狂気」のイメージとの両面があるんだな。


(だからニーチェからは優生学(というかある特定の価値)を肯定することも否定することもできないし、逆に肯定も否定もできるという訳だな。)