陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

20240910火01:51

1.やる気は無いです

 

 労働については何にせよ、クソどうでもよすぎて頭が回らないというのが正直なところだ。ましてや目標設定については。結局何も考えていない。課長に連絡もしていない。とりあえず上手くいっていないことだけは伝わっているといいが。それを伝えることも含めて、やる気が出ない。

 モチベーションという単語をよく聞く。「やる気」と同義に使われているようだが、原義は「動機」だろう。やる気を出すための動機だから、つまり報酬のことだ。私が労働する動機=報酬は何か。毎月の給料だ。となると、むしろやる気は出さず、日中サボって、余計に残業して金を貰った方が得策という訳だ。

 ボーナスも欲しい。ボーナスを高くするには目標を設定しなければならない。ところが目標は半年で3つも、しかも「チャレンジング」なものでないと減点しますと言われちゃあ、むしろこの状況の何処からモチベートされ得るのか教えて欲しいくらいだ。

 もしかすると、こんな日記を書いてる間に目標の一つや二つ(いや、三つだ!)考えられるだろうと思われるかもしれない。馬鹿を言うな。考えられない。そもそも子供の頃からこの方、目標を立てて計画を立ててそれを守って事を完遂するということを成功させたことは一度たりともないのだ。私は、動ける時に動けるだけ動いて、動けなければ動かない、そういう人間だ。だから目標を「持たされる」となればそれはもう、ほとんど私という存在・人格との矛盾と言ってもいいレベルなのだ。従って会社は私を殺そうとしている。その自覚は無いようだが。本当に、気軽に人を殺そうとしてくる。

 まあ、やはりこれからも変わらない。動けたら動くだけだ。最終的には金よりも、心身の安全を取るべきだろう。

 

2.世人はクソです

 

 太々しくなることだな。何が起ころうが誰が怒ろうが放っておいて、「はあ。」という態度でいるべきだ。すっとぼけよう。流れに身を任せないこと、状況や他人の感情を親身に受け取らないこと。積極性は皆無でいい。

 サボりと空とぼけは、身近な階級闘争の一環として社会学者の植村邦彦も推奨しているところだ(『隠された奴隷制』)。問題が「過酷な長時間労働」に集中してしまうところはこの手の議論ではいつも不満ではあるが。過酷でなくても長時間でなくても、労働は問題なのだ。労働は人を自由にしないし、成長させないし、卑しくケチにする。労働にのめり込んでいればいるほど、いよいよ気違い染みてくる。それが分からなくなったら終わりだ。

 正直私は自分の親ですら半ば気違いだと思っている。労働のことになると、みんなの頭がおかしくなる。労働教が一つの宗教であるとすれば、大多数の日本人は宗教二世であり、また信者でもある訳だ。そしてあまりに優勢な宗教は、宗教として自覚されない。だから異端もまた異端として排除される訳ではない。ただ当然のこととして、自然に排除されるだけだ。教義に則って排除しているという認識すら、信者の中には無い。

 

3.余暇

 

 余暇がどれくらい必要なのかについては一考の余地がある。読書は好きだが、果たして読書時間は一日に何時間必要なのか? 多くても2時間か、多くても3時間で十分な気はする。そのくらいの時間なら労働しながらでも確保できる。最近の状況はともかく。いや、テレワークでなくなったらちょっときついかもしれない。

 と、このように「自分にはどのくらいの余暇が必要なのか?」などと考え始めてしまうことこそが、労働者のケチ臭さ、前提のおかしさを如実に示している。

 

4.人格

 

 読書であれ何であれ、それをやることによって何が起きるかというと、人格が形成されるのだ。自分の中に独自の領域を作り、そこに住むことができるのだ。趣味とはそういうものだ。労働は? 労働は、自分の中の空間に他人のための豪邸を建てて、他人をそこに住ませて、世話をして、献上して、自分は野外の柱か何かに縛られて、別の用事を言いつけられるのを待つようなものだ。そんな人格を形成したらおかしくなるに決まっているではないか?