陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

20240911水0138

1.早めの終業

 

 今日はここ最近では珍しく20時半には終業した。時間があるなと思っていたのに、いつの間にか24時になっていた。いつも以上に経過が速い。やはり飯と風呂とはさっさと済ませないと駄目なのだ。

 

2.ヘッドセット

 

 もう数週間前のことだが、ヘッドセットが壊れたので新しいのを買った。前のは耳に引っ掛けるタイプのヘッドホン型だったが、今回のはカナル型(耳に突っ込む型)のイヤホンにマイクがくっついたやつだ。で、前のヘッドセットを一日中付けていると、耳の上部が傷付いて血が出る。今のヘッドセットを一日中付けていると、耳の入口が擦り切れて血が出る。12時間も付けっぱなしなら当然だ。痛い。

 

3.明日以降は流石に違うことを書こうかと思ってます

 

 ここ数日労働を腐しているが、まあ、人間負けが込んでくると、状況を腐し始めるものだ。労働だろうが何だろうが、勝っていさえすれば、不平不満なく幸福に生きられるのだ。……などと本気で思っているのか??? そもそも勝っただの負けただの言うこと自体が卑しいことだと思わんのか? 有能!無能!年収!貢献! 決まった時間に起きてどうでもいい他人に貢献して金を稼がねばならない時点で大局的には大負けなのだ。ましてや努力!協調!自己管理! クソ馬鹿馬鹿しい道徳!責任!目標と成長! 何をどうしたら「勝ち」なんだこんなもん。くたばれ。

 じゃああれか、「そんなことを言うならもっと高収入な職業について、思い切って金をたくさん溜めて、早期のリタイアを実現すべきだった」とかいう話になるのか? 労働したくないっつってんのに、高収入な職業に就くための努力をすればよかったのにぃ~ってか? これこそ馬鹿論だ! 過去は変えられないし、過去に戻れたとしてもそんな努力は絶対にしない。転職もスキルアップも同じだ! じゃ、自己責任か。その通り! 何でも自己責任という名の箱に放り込んで「仕方ない」で済ますのが、労働者根性なのだ。

 お次はこれだ。「労働でやっている活動をそのまま自分の趣味にしてしまえばいい!」。趣味ってのはな、自分のペースで、自分の進みたい方向に、進みたいだけ進めないと駄目なのだ。要求されてやってる時点でそれは趣味じゃない。需要に応える労働だ。「要求されている範囲を超えて、前のめりに没頭するのだ!」。だから、それは後ろから追われていることだろうが。好きにさせろ。事柄そのものに集中させろ。要求をするな。「どうせ何かするなら、それを人の役に立てた方がいい」……これこそが卑しくケチな労働者の発想だ! お前なんぞの役に立つために私がいるのではないのだ!!

 

4.だって労働への不満を言う時が一番言葉が出てきやすいんだもの

 

 もう一度、落ち着いて、普通に書こう。

 「働かないと現状生きていけない」。これは正しい。

 「だからこの現実を受け入れて、不平を言うべきではない」。何なのだろうか。これは現実主義ではない。敗北主義だ。

 「それは周りの人間をも暗い気持ちにさせたり、苛立たせたりするし、嘲笑を呼ぶことにもなる」。笑いたければ笑えばいい。「お役に立てて何より」だ。馬鹿はお前だ。死ね!!!

 ああ、また文章が乱れる。

 大丈夫、これは文体上の問題であって、現実の私は至って落ち着いている。ただ少しうんざりしているだけだ。ついでに、人類には滅んで欲しいし、とりわけ偉そうな奴は地獄に落ちて欲しい。私はこんなクソカスのような種族に生まれた記憶を一切失い、どこか静かで涼しいところで永遠に眠っていたい。

 

5.読書感想

 

 普通のことを書こう。

 角川ソフィア文庫の仏教の思想シリーズの7、『無の探求<中国禅>』を読んでいる。禅と言えば私は馬祖とか臨済とか、碧巌録とかしか知らなかったが、初期の禅のことについても書いてあって勉強になった。神会とか宗密とかその辺だ。

 禅と言えば煩瑣な理屈はぶった斬って直接的・直観的な真理をもぎ取るもんだと思っていたが、どうも宗密さんは禅の派閥のかなり詳細な教義比較をして、長大な論書を書いたらしい。「不立文字」が積極的に言われるようになったのは馬祖以後のことなんだそうだ。

 馬祖禅と神会禅の違いについて書いてある箇所が引用されていた。正直かなり微妙な違いしか読み取れない。というか違いがよく分からなかった。同じ南宗だから当たり前と言えばそうだが。宗密さんは神会禅(荷沢宗)が正統派だとして推していたようなのだが、後に真に大成したのは傍系とされた馬祖禅の方だったらしい。確かに、こんな細かいところに拘ってたらそりゃ廃れるわと思った次第。大雑把でも力強くさっぱりした思想の方が良い。