1.やる気があるかはさておき
昨日は結局6時頃まで起きていた。今日は16時くらいまで寝てようかと思ったが、15時前には起きた。
休日の間は、自分には何でもできるし、前途は開けているし、未来は明るいような気がしている。労働によって如何に自信が失われていることか。
まあ、2日丸々休めたので、気力はある程度回復した。どうにか明日も戦えそうだ。
2.書きたい
読書はもちろん有益なんだが、読むことよりむしろ書くことの方が重要だ。とにかく書きまくればすっきりする。内容は何でもいい。いや、分かっている。何かを書きたい欲求が高まっているということは、いよいよ人生の調子が悪いということだ!!
とにかく書いていさえすれば「充実」だ。私は決して無駄なことをしているのではない、書いたものは残るし、私はここにいるし、すべきことをしている。最も重要なことは為されている。
3.読書
読書を人生の役に立てようとしてはいけないと思う。役に立つものだけ摂取しようとしても失望するだけだろう。大抵の本には、特定の認識方法が真理として書かれているだけで、実生活の何かに活かすというよりは、認識そのものを鑑賞し味わうために書かれている。要するに全ての書籍は芸術的なのだ。読書は「食っていく」ためのものではないし、「できる人間になる」ためのものではないし、まして「マウントを取る」ためのものではない。
ただ生活上の問題を抱えて精神に余裕がなくなると、読書してもついその中に「答え」を探すようになり、当然何も得られず、「今はこんなことしている暇はない」となってしまう。ただ困難な状況にあってはむしろ生活上の「答え」を求めない時間が絶対に必要になるはずだ。そのためにこそ読書が必要になる。
4.散髪
髪を切った。久し振りに髪が目を覆うくらいまで長くなっていたのを、ばっさりと短髪に。すっきりした。切った髪を持ってみたら割とずっしりしていた。本当は2週間前くらいから「そろそろ切ろう」と思っていたのに、激務のせいで今日まで延びた。ついでに髭も剃った。最近はずっと剃らずに、小さいハサミで切るに留めていた。
5.労働者の心理について
ここ数日している話。「あらゆる活動は外的事情により強制され、やむを得ず開始される。そのことが忘れられると、強制されたことは自然的な義務として感じられてくる。義務に従うのは正しいことであり、正しいことをするところに自分の意志があるので、義務に従うことが自分の意志として感じられてくる。かくして、すべきことがしたいことに変わり、強制が自由に変わり、従属性が主体性と言い換えられる」。
ただ、全てが強制されたことであり、やむを得ず始められることであるとすると、「自分の意志」と「強制」を切り分ける根拠の方がむしろ無いことになる。自分の意志と言っても自分の意志ではなく、強制されているとしてもそれを自分の意志とすることはできるから。自発的/従属的という分け方ができない。強制されて仕方なくやっていることも自分の意志であり、自分の意志としてやっていることもまた強制されている。自発と強制とは、そこに苦痛がどれほど伴うかという、程度の問題でしかない。そして苦痛がそこにどれだけ伴うかは、その事象に対する態度によって異なる。態度は意志による。ということで、「全ては強制されたことである」ということが、「全ては意志によることである」ということに接続できる訳だ。
ということで最終的に、「労働は望んでやってることじゃないけど、俺は俺なりに楽しくやってるよ」みたいな態度が成り立つ。こういう態度まで非難しようとするのは流石に控えたいけれど、それでいいのか?本当に仕方ないのか?そんな程度で満足なのか?ということは問いたい。
6.ブレワイ
ゲーム実況者のキリンさんが最近、ゼルダ(ブレスオブザワイルド)の実況をしているので、ちょこちょこ見ている。キリンさんがやってなお見ていて軽くイライラするようなところがあるので、やっぱブレワイってクソゲーだよなと改めて確信した。敵が機敏なのに、主人公のアクションがもっさりし過ぎ。