陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

チャレンジ目標ねえ。。

 どうせ何がチャレンジングで何がチャレンジングではないかの判定で揉めるんだろうな。それできっと、「資格の取得はチャレンジングであるとは言えません」とかなんとか謎の基準が押し付けられるんだろう。

 チャレンジングではない目標は評価の上限が「2」(ちょっと及ばずですねえ)になるから、少なくとも1つは入れないといけない。

 一応、チャレンジしてそれを達成できれば評価は「4」(すごくよくできました)とか「5」(すばらしい、昇格させてあげます)とか付きやすくなるらしいので、達成できさえすればチャレンジ目標は1個でも大丈夫っぽいな。

 ・・・達成できればな。そもそも「チャレンジング」っていうのは達成困難ってことであってだな。

 頑張れば達成できそうなぎりぎりの目標を立てるにしても、それを考える手間が生じる(私自身がごちゃごちゃ考えないと出てこないようなものって、本当に私の目標なのか?)し、ぎりぎりを責めすぎると「これはチャレンジングではない」っていちゃもん付けられるだろうし、なんなんだ。

 

 そういえば今年から新しくコンサルタントを雇って、事業を一層盛り上げていきます、みたいなことも言っていた。

 恨猿に無駄金出してる余裕があるなら社員に還元しろよ。どうせ締め上げ的な案しか出さないだろそいつら。

 

 主体性という言葉について。

 どうも主体という言葉の理解が私と社会でずれている。

 私の言う主体というのは、「自己の内部から湧き出た欲求に従って自然に行動している状態」くらいの意味合いだ。それぞれが自発的に動いたときに、それを主体性と言う。

 

 なのだが、社会的な意味での主体はそうではなく、「主体的であることを期待しています」というのはつまり「こちらで設定したルールの中で良い振る舞いをすることを期待しています」くらいの意味らしい。何らかの「良い存在」にならないと、あなたが困ることになりますよ、それが嫌なら主体的に動いてくださいね、という用法が取られる。

 昔、社会学の講義で主体の定義についての説明を聞いたことがある。そこでは主体とは「行為の起点であり、その行為に責任を取る存在」みたいな感じに言われていた。

 つまり主体は自己責任の主体ということだ。「あなたは自由に行為していいけど、その結果を責任として引き受ける義務がありますよ」と言っているのだな。

 

 そりゃ、人間というのは常に自分の行為の結果を生きているんだから、行為に責任が生じるのは当り前なのだが、問題なのは「責任を取ってくださいね」と言っている、他ならぬそいつが、「どういう行為に対しどういう責任が生じるのか」を操作しているということだ。だから「責任はあなたが取ってね」というのはこの場合ただの脅しであって、要するに「私に従え/私にとって都合の良い存在であれ」と言っていることに等しい。

 ということは、そういう脅しを受けている主体は、現実的には行為の起点でも何でもないんだから、主体ではないということになる。なのに「主体的であることを期待しています」みたいなことを言うので、語義矛盾を感じて気色が悪い。「本当は脅されてるんだけど、恰もそうではないかのように振舞うようにせよ」という命令もまた主体という概念の内に含まれているんだろう。

 

 という訳で「自然的主体性」みたいなものと、「社会的主体性」みたいなものとは分けて考えねばならないのだな。後者を「従属的主体性」と呼んでもいい。従属する主体とかいうのは形容矛盾に見えるが、実際そういう用法なんだからしょうがない。