陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

20240908日4:44

1.良く寝た

 

 昨日寝たのは確か2時頃、今日は14時まで寝ていた。やはり長く寝ると、明らかに普段より目がすっきりする。ということは、普段は不足しているということだ。当たり前だが。

 

2.夢

 

 小学生に戻って生活している夢。しばらくのんびり過ごせるな〜と思っていた。なんやかんやで、社長が犯罪者出あることが判明して喜んだ。

 どこかのテーマパークでジェットコースターのような挙動をする電車に乗った。俯瞰視点で電車を見下ろしていた。速かった。車両は客室のようになっていた。同じ車両に乗っていた若者グループがゲーム機(黒いニンテンドー3DS、充電中)を忘れていったので、届けなければと思った。

 夜、野外で、複数本の鉄の芯に白い頑丈な布を張ったような塔を登る大会が開かれていて、若い男が優勝した。その男は歌手らしく、自分の作った曲を歌って会場を盛り上げた。男の登り方は相当に巧みだったらしく、解説がされていたがよく覚えていない。塔の上には敵が配置されていたらしいが、見事に回避したとかなんとか。

 建物内で紅茶を使った飲み物を注文した。母もいた。(現実の母は紅茶は飲まない。)品種に拘りがあるようで、店員に色々訊いていた。

 

3.スカイリム

 

 ちょっとゲームし過ぎて、気付いたら夜中3時になっていた。まだあまり眠くならない。やっぱり日中たくさん寝て、夜はずっと起きている生活の方が性に合っている気がする。何か夜勤の仕事に転職できないだろうか。

 ゲームはスカイリムで、ドラゴンブリッジのクリントンくんを養子にしようと思ったのだが、養子にする選択肢を選んだ後、何故かその場を全く動かなくなってしまい家に来てくれない。色々試してみたが、どうやら村でずっと一緒にいたヤギと関係しているらしく、ヤギを殺したら家に来るようになった。しかしどうやってもヤギを殺す時に賞金が付いてしまうのが気に入らず、方法を考え中。あと、ハースファイアの家に養子を入れる時には、子供用宝箱を作っておかないといけないことを初めて知った。

 

4.意志

 

 数日前に書いた、「初めは脅迫されて始めたことが、次第にそれ自体として義務となり、最後に自分の意志になる」って話は、別に労働だけじゃなくて、全てにおいてそうだ。全ての営為はやむを得ず始められることだ。意志は不本意な意志なのだ。本来意志は盲目であり、固有の目的を持たない。そこに「自分の意志」という実質を与えるのが強制なのだ。なお動物においては、強制されたとも、義務であるとも、自分の意志であるとも理解はされない。それらは人間的概念だ。自分に課せられた義務を自分の意志として引き受けるのが人間の意志なのだ。グロテスクなことだ。強制され、服従していることを忘れたところに自分の意志と誇りがある。そうしてその誇りが、服従しているという真理を、弱者のすがる虚偽として嘲笑する訳だ。「思い通りにならないのは、お前の意志が弱いからだ」と。

 

5.何の役に立つか

 

 何かを習得するに当たってそれが「何の役に立つか」を予め知ろうとするのはおかしい。既に習得した人にそれを問うのもおかしい。既に習得した人にとっては、習得したことは自分自身の人格に結合し、生の全てに関係している。故にそれ単独で取り出して何に影響しているかを語ることはできない。要は「全ての役に立っています」としか言いようがない。逆に、人の弱点について、それがあることによって「何の問題が生じているか」を問うのもおかしい。「それのせいで全てが台無しになっている」としか、当人には言いようがないのだ。

 

6.内気

 

 内気な性格を治したい、変えたいと思うのは良くないのかもしれない。そもそも内気は人格の問題であり、人格を治すとか治さないとかいうのは、端的に失礼な話ではないか?

 内気を克服せねばならないというのは、内気が自他にとって「害」になるからだ。それは暴力的な性格が「害」と見做されるのと同じ理屈だ。が、対人折衝が苦手な正確や、対立を避ける性格は果たして「害」なのか? それが「害」であるのは飽くまで、所属している集団の、過敏過ぎる規範・論理によってそう規定されるからなのだ。であれば、その集団の論理こそが私にとっての「害」なのだ。

 「人格は変わり得る」という話と、「人格を変え得る」という話は全く別の話だ。人格はやむを得ず変わるのであって、変えようと思う際にも、それはやむを得ず、変えざるを得ずして変えるのだ。

 柔軟性は一般に加齢と共に失われていく。それは必ずしも悪いことではない。中年以降の人間の落ち着きは、もはや自分は治せない、これこのままで死ぬしかない、という覚悟が決まることから来るのではなかろうか。

 

7.ブッダの教え

 

 「ブッダの教えに従ってこのように生きれば苦しみは無くなる!」って本はたくさんあるが、「こういう考えを堅持すれば大丈夫」って考え方ほど、ブッダから遠いものも無い。無常-苦-無我という連関は正に全てが「思い通りにならない」ことを意味するからだ。四聖諦もまた無常であって、苦の根拠を明らめ苦を滅した後には、また苦に戻ってこなければならない。それを現実として受け入れることが更に四聖諦の実践となる訳だ。苦と悟りとはお気楽な一方通行ではない。

 

8.三諦円融

 

 三諦円融についてのメモ。あらゆる存在者の実質は空である。有形無形を問わず、存在者はその都度、立ち現れたり立ち消えたり、形成されたり壊滅したり、真理であったり虚偽であったり、善であったり悪であったりする。それ故その現われは常に仮である。ただそれは物事を時間的に、無常の相の下に見る時そうなのであって、瞬間においてその都度の現われは絶対の現実であり、真実である。故にそれは中(中っている、適切である、信頼に足るーー)である。空もまた仮に説かれたことであり、世界を実と見る可能性が残されているからこそ、中もまた可能であり、空が絶対の真理たり得る。なおかつ空は何処までも空であり、絶対の真理が無いから、却ってそれが絶対の真理となり得る。真理が有るということは絶対に無いが、無いということもまた絶対に無いからだ。