陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

助け合い

 助け合い(共同体?)の本義は「困っている人を助ける代わりに、自分が困った時には助けてもらえる」という広域的・長期的なものだと思うのだが、現代の助け合いは助けられた本人に即座に見返りを求める。それで「何も返せないなら助けない」が先に来る。さもしいし、馬鹿だ。返せないから助けを求めているのに。

 ・・・いや、「困っている人を助ける代わりに」は要らないか。誰をも助けなかった人ですら、助けられるべきだ。

 そうなると「共同体」概念も要らないな。「困ったら無条件で助けてもらえる」が一番だ。誰にとってもそれが一番良い。

 

 ニーチェなんかは「助け起こすことが常に善とは限らない(本人の成長を阻害するため)」みたいな戯言も吐くけど、それは「助け起こすことが害になる場合は、助けないことが助けることになる」ということを言ってるだけであって、それも助けることの一種だ。

 

 で、「困っている人は無条件で助けられる社会」と言うと、即座に「そうなったら、助ける側の人が足りなくなって、結果的に社会全体が困窮してしまう」とかいう別の戯言も出てくるのだ。まずそういう心配をする前に、現実に「助ける人」が足りなくなることがあり得るのか、あり得るとしても、「助ける人」が足りないから助けないということは十分に合理的なのかについて考えるべきだろう。

 こういう心配が出るときに想像されているのは、例えば10人の集団がいて、その内9人が寝たきりの老人であるとか、物心つかない赤子であるとかで、まともに動ける1人の大人が、狩猟採集か何かをして9人を養っているというような、そういう状態ではないか? 現実の社会はそうなっているか? 最低でも、老人や赤子が7人いて、大人が3人いて、重要なこととして、その3人が操作できる機械や、それまでに先人が培ってきた農園や牧畜があり、というような想定の方が現在の社会に近いのではないか? 3人で10人分の需要を満たせるなら、残り7人に何をさせようと言うのか。

 まして「助ける側の人」だの「助けられる側の人」だのいうのは妄想だ。それは固定的な関係ではない。働いている大人は、働けない老人になるのだ。働けない子供は働ける大人になる。ではその時、自分は「助ける側の人」ではなくなったから、潔く死ぬのか? それが正当なことなのか?

 

 世代間闘争だの生活保護の是非だのは煽られているが、それで言うなら、足りないのは弱者に分け与えるためのリソースではなく、むしろ弱者が用いるべき金だ。金が足りない。だから景気が悪い。需要が足りない。だから供給も減る。供給が減るから、リソースが足りないように見える。それで「社会に余裕が無い」ように見える。そう見えるから、弱者に金を与えようという発想はまるで出てこない。「有限な資源を無駄にしないようにしよう!」と考えているから、本当に資源が足りなくなる。全く馬鹿ばかりだ。

 

 仮に弱者を保護した結果全体が困窮するとして、それはどういうことなのか? 弱者を救えなくなっている時点で、その社会は社会としておしまいなのだ。では、滅べばいいだろう。弱るなら弱ればよい。実際そうはならない。必要は供給される。誰かが何とかするのだ。社会の全体に関する無駄な悲観論は、人間性への侮辱だ。

 

 そもそも、いつでも助けてもらえる状況の方が、逆に他人を助け易くなるだろう。誰からも助けてもらえない状況では、他人を助ける余裕も湧かない。

 「自分は困っている時に助けてもらったから、別の困っている人を助けてあげよう」という意志が、助け合いの美しさを作る。これが意志ではなく、ただの規範になると、「他人を助けてあげると、その見返りとして自分も助けてもらえる」ないし「他人を助けてあげないと、自分も助けてもらえない」となり、助けることが強制になる。そうなると、逆に「他人を助けられないものは、助けられるべきではない」という規範も自然に発生するので、これで「見返りを用意できないものは死ね」が完成する訳だ。これが悍ましい共同体の論理になる。

 助け合いは自発的だから意味がある。自発的になるには自分が助けられる経験が必要だ。それも、「助けられるに値するか」を判断されない経験が必要だ。結局それはどういうことかというと、無条件に助けられること、無条件に配られる金、ということで、ベーシックインカムが必要だといういつものところに着地する。それ以上言うべきことは無い。