陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

過去と未来と現在と(ニーチェ風味)

 過去の後悔について。「あそこでああしていればもっと良い現在があったかもしれない」ということ。

 過去に対して、普通の現代人はこう考える。「過去とは未来をより良くするための資料である。過去は反省されねばならない。現在の失敗は分析されるべきだ。過去を探り、現在の状況の原因を特定し、それが何故発生したかを考え、同じ失敗を二度と起こさないようにすれば、私は進歩する」。

 しかし私は言う、そもそも後悔をするな。反省をするな。同じ失敗を何度でもしろ。何故なら、それがお前だからだ。

 「過去を反省することで未来をより良くすることができる」ーーこれは呪いだ。罪の告白とその償いだ。お前はキリスト教徒なのか? 断じて否!

 「過去は最早変えられないので、受け入れるしかない。それは仕方がなかったのだ」ーーこれもまた呪いだ。そもそも、「変える」必要が無いのだ! 結局ここで何が言われているのかーー罪はどうしても消せない。しかし私は大悲を以って罪を赦してしんぜよう、ということだ。お前はキリスト教徒なのか? 断じて否!

 そうではない。お前は最も善いことをしたのだ。過去に罪は無く、現在は償いでは無い。赦されるべきことも無い。なるほどお前は失敗したのか? ではその失敗を称えよう。成功に結び付くからではない。それが「お前の」失敗だからだ。

 

 未来の不安について。

 未来については過去を応用すべきだ。過去を後悔する必要はない。よって未来を不安がる必要もない。

 現在を生きるのに過去の記憶・追憶が必須であるのと同様、未来の想像をせずに生きることは不可能である。

 ただ未来と呼ばれているものは、いずれ必ず過去となる。そうして過去に後悔すべき何事も無いなら、未来において不安を持つべき何事もまた存在しない。結局、全て善いことしか起こらないからだ。好きなように、好きなだけ想像すればよい! それらは真理ではないし、現実に起こることは結局全て良い。それがお前の未来だ。未来は確定している。

 

 最後に現在の苦痛について。現在なる時間の領域は存在しない。それは過去と未来の境界に過ぎない。過去も未来も無罪であり最善であるなら、現在もまた何ら恐るべきことではない道理である。現在生じている感覚がどうしようもない苦痛であるということは、一つの偏見であり得る。

 現在の行為が未来の原因となる。今この瞬間に全てが懸っているように思える。しかし現在はこのように有らざるを得ずしてこのようにある。今現にしていることと反対のことをするのは不可能である。故に、未来もまた選ぶことはできない。より良い未来を求めることは無意味である。未来は一つしかない。