陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

定期的なやつ

 一人では大したことはできない。例えば「月に行きたい」とか。集団を作れば、そういう大きな願望も実現することができる。代わりに個人の欲求は制限されることになる。自分の都合だけでは動けなくなるからだ。個人の欲求と集団の欲求が一致している場合には、双方にとって幸福な関係になる。

 大きな欲求を持ち、それを組織的に実現したい願望を持っている人はそうすればいい。大きな欲求をそもそも持っていない人は、一人で生きていった方が良い。ところが、一人で生きていくということが現代ではそもそも許されていない。一人で狩猟採集をして生きていけるように社会が設計されていない。金が要る。金を稼ぐには商業をやって他人の需要に応えなければならない。つまり労働をせねばならない。労働以外での収入は原則禁じられている。

 ということは、小さな欲求しか持っていない個人すらも、大きな欲求、大きな組織の中に置いて管理しておく設計になっているということだ。私は何かに参加させられている。個人の欲求よりも大きなものに参与・貢献することが要求されている。

 では社会の持つ大きな欲求とは何かというと、正に「社会をやること」だ。社会は無数の欲求と確信と懐疑が作用して進展していくのだが、現状最も強い確信が、「成員がお互いに貢献し、支え合うことで共同体が成り立っている」というお話だからだ。ただ単に生きていくというそれだけのことが、今や「大きな欲求」と見做されている。何故なら、生きることはコストであり、そのコストを負担しているのは周囲の人間たち(とその労働)であるとみなされるからだ。「人は一人では生きていけない!」という確信が、本当に人を一人で生きていけなくしてしまうのだ。

 ここで度外視されていることは、本来「人が一人で生きていけない」ことは、「誰もが労働しなければならない」ということに直結しない、ということだ。100人の需要を20人で満たせるなら、80人は何もしなくていい。ところが社会はそれを許さないのだ。何故なら「働かざる者食うべからず」であり、「世の中は助け合い」であり、「ただ乗りする者がいると全体のリソースが足りなくなってしまう」からだ。要するに全体の需要を満たしきれない少人数の部族の掟をそのまま高度な文明に適用してしまっている。先人たちの積み上げた技術・文明があり、生産手段がある。現在でもその技術を継承・発展させる有能な一握りの人間がいる。そしてそれ以外の、それら技術の恩恵を被って暮らす、自分自身は文明の発展に寄与しない平凡な人々がいる。社会の目的は平凡な人々が豊かに暮らすことだ。有能な人間が生き残るためには、わざわざ社会を形成するまでもない。有能な人間は文明が滅んだって勝手に生きていけるのだ。「一人では生きていけない」無能が生きるために社会はある。であれば、お互いに平等な「支え合い」など初めから不可能なのだ。恩恵を強くもたらす者と、それにただ乗りして生きる者がいるのが当然なのだ。