父と私と叔父さんと叔母さんと祖母だ。
道がいつもより空いていて良かった。
いつも通り水を掛けて手を合わせた。
彼岸で来る時、祖母はいつも住職にお布施を払っているらしい。今日はたまたま住職に出くわして挨拶したらしいが、金については「ああはいはい、そこ置いといて」的な態度で、お礼も言わないらしい。どこの坊さんもそんなに偉そうなんだろうか?
帰りはファミレスで食って帰った。パンケーキとコーヒー。唐揚げも。
「書きたいことを書きたいように書く」というのがブロガーの常套句だが、書きたい気持ちがあっても書きたいことが無かったり、とりあえず書いてみたけど思ったのと違って、結果的に書きたいように書けていなかったりするので、「書きたいことを書きたいように書く」は言うほど簡単ではないよなあ、と思った。
自分を慰めるときには「あれはあれで仕方なかったのだ」って考えがちだけど、それはあまりに未練のある表現だな、と思った。
「あれこそが最善だったのだ」って考えないとな。私は最も良いことをしたのだ。
最近父のこと死ね死ね書き過ぎかなあとも思ったので言い訳を書いておこう。
死んで欲しいのは本当だが、記述にはかなり感情的な勢いが入っている。
父はとにかく「親に向かって~」という表現が好きなタイプだ。親だから偉い、と思っているので議論は通じない。
そもそも頭の固い老人と話すのは億劫だ。脳の縮んだ老人に何かを教えるのは不可能だ。どうせ何も理解せず不貞腐れるか、家を出て行けと言うだけだろう。よって関係の再構築は不可能。
現実的に発散する手段が無いので、とりあえず罵倒を書き込んで感情を処理しているだけだ。
前にも書いたが親子関係というのは愛憎入り混じっていて当然だ。長生きして欲しい気持ちと、早く死んで欲しい気持ちとは矛盾せず両立する。
親への感謝の気持ちを誇張して書くことも勿論やろうと思えばできる。ただ残念ながら、感謝やら愛情やらは、恨みや憎悪や苛立ちほどには表現力を喚起しないのだ。
という訳で勢い激しい言葉を書くことにもなる。このブログに読者はほとんどいないが、まあ真面目に読んでいる人がもしいたら、一種の文学的表現だと思って本気に受け取らないで欲しい。
文学的ということに付け足すと、より秀逸な罵倒の表現は常に探っていきたいと思っている。一周回って面白く読めるような憎しみというのがあると思うのだ。自分の内面の記述もな。今はちょっとまだ難しいが。
感情が湧いたのなら、それを的確に表現する練習の機会になる。
ああ、優しい気持ちがどこかに転がってないだろうか。
それにつけても、思ったことをただ書き付けるだけで一日が終わるような生活ができたらいいのになあ。