陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

夏休みとか

 来週いっぱい夏休みになった。と言っても常駐している客先の、プロジェクトの夏休みに合わせて有給が取れただけなのだが。(客先の人たちは有給ではない夏休みがある。)まあなんやかんや、うれしい。「なんやかんや」というのは、そもそも労働自体が嫌なので、「夏休み」と言われても「ずっと休ませろや」と思ってしまうからですが。まあ、いいや。やることをやらねば。仕事があると人生ができない。

 

 気分も落ち込みがちだったしな。丁度良い。気分が落ち込むというか、まともに頭が働かない状態というか。最近は資料とか説明書を作成する仕事ばかりしていたが、こういう時期は能率が落ちまくりだ。普段からさぼり魔の私でもちょっとここ最近は酷すぎた。成果はボロカスなんだが、それでも怒られはしないので、その点は有難いなと思う。叱ってやる方が優しい、みたいな風潮があるがあれはクソだ。できていないことは本人が一番よくわかってるので、わざわざ怒っていただかなくて結構だ。鬱陶しい。という訳だが、まあメンタルも調子が出ない。そういう時は休むのが良い。……場合によりますが、元気が出ないときに元気を出そうとしてはいけないのです。休むべきです。

 

 雑談していて、7月に蝉の幼虫を踏み潰して殺してしまった件を父に話した。それで色々考えてしまいやや落ち込んでいる。何年も地中で過ごしてようやく出てきて、羽化するために登って行ったんだが、しかしその登ってたのは、木じゃなかったのだ。公園の脇の坂道の高いところに続く壁だったのだ。それで歩道に出たところ俺に踏み潰されて、終了。

 いやそれは擬人化した表現ではありますね。蝉自身はそんな意識を持ってるはずがないのです。ただ訳も分からず生まれて生きて、訳が分かるとか分からないとかいう意識すらなく死んだ、というただそれだけです。だから誰も苦しんでないのであり、私が気に病む必要もない。しかし、人間から見たら酷い死に方なのに、蝉自身がそれを自覚しないまま死ぬというのは、どうなのか? それは酷いことなのかそうではないのか? またどういう倫理によって「酷い」ことだと言えるのだろうか?と少し考えます。

 また私はこれを書いてどうすんでしょう。しんみりした気持ちになったことを日記のネタにして投稿するというのはどういう行為なのか? なんとなく醜悪な気がしますが、そういう醜悪さを自覚してますというのを更に書くこと自体が更に醜悪なことではないか?という。

 そもそも蝉が踏み潰される程度のことも、それと似たような人が殺されることだって世界中で毎日起きていますが、何故私は毎日心を痛めないのか? 書けば書くほど白々しくはないでしょうか。

 ……いや、つまり、しんみりしたのは本当だし心が軽く痛んだのも本当だが、それをべたべたした文学表現で飾るのが気持ち悪いんだな。罪悪感そのものは私自身しか味わうことのできないもので、どうしたって伝達不可能なのだ。だから強いて言葉で伝えようとすればするほど嘘っぽくなる。というか罪悪感というのもあんまり当たっていない。ちょっと気持ち悪かった体験、と言った方が正確だ。