考えたことのないようなことを考えるようにしないと、老いるよなあと思った。
一方で、何度も考えたことを更に考え直すようなこともしないと、成熟しない。
自分を外から見ようとする人間特有の病気を予防していかないといかん。
夜に焼肉食いに行こうと父が言っていた。
16時ちょい過ぎに、いきなり怒鳴られてびっくりした。見ると部屋のドアを開けて父がいた。
何度も呼んだのに反応がないからイライラしたとのことだ。私は音楽を聞いていた。
いや、夜って言ってたから。16時って。昼じゃん。外めっちゃ明るいんだけど。「ええ……」としか言いようがなかった。
父は怒りながら先に出た。流石に食欲は無くなったので、やっぱ行くのやめとくと連絡。
ああ、17時までのランチタイムに間に合わせたかったのか? ランチタイムって昼じゃん。夜って言ってたじゃん。は?
今日は起きたら10時半でいつもより大分遅くてびっくりしたとか言ってたから、11時頃に早めの昼飯だったのかな。それでお腹減って16時に夕食、ということか。知らんわ。死ね。
また余計な感情処理が必要になるのか。。
もう用済みだから早く死んでくれないかな。
こんなゴミでも死ねばそれなりに良い思い出になるんだから。早く死ね。
他人の負の感情を処理するのが苦手だ。
防御や反撃より回避に重きを置く、ほとんど生まれつきの気質だと思う。
普通は他人との関わりの中で適切な反応を学んでいくもんなのだが、回避が先んじたせいで何も学べていない。
いや、ちょっと捏造しているな。色々と機会はあったし経験もしたはずだが、どれもこれも碌な結果に繋がらなかった。
幼少期のおぼろげな記憶、というか私自身が小学生のころ実際に母に言った記憶があるが、「親は姉に当たり、姉は私に当たる。私は物に当たる」。
つまり家族の中で私だけが、捌け口になる人間を持っていなかった。そしてそういう不機嫌の受け渡しは一つの秩序であって、一方通行であり、逆流は許されなかった。不機嫌を撒き散らす機会が、私だけ無かった。
結果として他人の感情を受け流す技術・押し留める技術は持てたが、人間に感情をぶつける技術が身につかなかった。受け皿だったのだ。反撃したり反論する能力が無い。周囲の攻撃性を反面教師にしたので、こちらから攻撃する能力も無い。
それで自然と回避的になったのだ。生まれつきの気質というのも多少はあるだろうが、大部分経験的なものだ。他人が怒り出したら、そこでもう終わりなのだ。
どうしても避けられなかった場合はほとんどこちらからは何もせずに相手の怒りが勝手に収まるのを待つ、という方策になった。
結局そのまま日付が変わってしまった。気持ち悪くて部屋から出られん。全然腹も減らない。数時間飯を食わなかっただけでイライラし始める豚とは違うんだよなあ。
碌なことができずあっという間に時間が過ぎた。
田園交響曲とか聞いてもどの辺が田園なのかはよく分からないけど、バルトークの音楽が圧倒的に「夜」なのは言われなくても分かる。これはすごいことだと思う。
管弦楽のための協奏曲」の一部がショスタコーヴィチ交響曲7番からの引用だというのを読んで、未聞だった7番を聞いてみた。引用といっても雰囲気は大分違うな。引用元より引用先の方に馴染みがあるんで、引用先の方が良いように聞こえる。
Wikipediaにはショスタコーヴィチがこの曲に込めた意図が長々と書いてあるんだが、知らんがなという感じだ。交響詩とかもそうだけどこっちは聞こえた通りに聞くだけだ。説明は要らない。が、こういう説明とか社会的背景にこそ興奮するっていう人も多いんだろうな。
引用直後のトロンボーンのグリッサンドにはショスタコーヴィチを揶揄するバルトークの意図があるのだ、面白いでしょ、みたいなのも読んだが全っ然揶揄には聞こえん。