陰雑記

日記とか

寝なきゃ

 昨日は思ったよりよく眠れた。入眠はやっぱりちょっとてこずったけど2時には寝れてたと思う。ウィスキーのお湯割りが良かった。湯気と共に立ち上るアルコールの香りに温められる。。手も温まる。

 

 パソコンの挙動がおかしい。。電波を受信できなくなる。このパソコンは今年2月に中古の2万円で買った東芝で、ここまで全く問題なく動いてくれていたんですが、やっぱり駄目なんじゃろか。というか、あれか、このパソコン無線LANに対応してなくて、USBになんか挿してルーターとやり取りしてるんですが、この部品が悪いのか。最悪これ取り替えたら復活するかな。

 

 かなりゲームしてしまった。3時間くらい。

 

 私ももちろん人を馬鹿にすることがあり、SNSとか見てると「なんでこいつこんな馬鹿なんだろ? こんな馬鹿になるくらいなら死んだ方がマシだわ」くらいに思うことはままあります。

 しかしそこで恐ろしくなるのは、実際私もそういう馬鹿になり得るという話です。それは私のこの生涯の中で知能が低下するとか判断を誤るとかいうことももちろんそうですし、またそもそも嫌悪しているその馬鹿にそのまま、私自身がなり得るということでもあります。私がこの私であることには何の根拠もないのであり、朝起きたら別人になっており、しかもなったことに気付かないということもあり得ます。(別人になったら記憶もその別人のものになっているはずなので、「なった」ということに気付けません。)

 これはほとんど輪廻転生の概念になりますが、そう考えると古代インドで何故輪廻がそんなに恐れられたのか分かるような気がします。内心見下している存在に、実際なってしまうことがあり得る、というのが肝だったのです。なりたくないけどなってしまう場合がある。

永井均じゃないですが、私がこの私であることは世界内の事実ではないので、別の事実によって根拠づけることはできないし、対策することもできません。

 そこで、何になっても大丈夫なようにしよう、執着を捨てよう、という話になってきます。よく考えたら、現代風に死んだら無になる、それでおしまい、と考えるより、否応なく別の何かにさせられてしまうっていうことの方が遥かに恐ろしいですね。もちろん執着を「断つ」「断たない」の関係も一つの縁起であり輪廻である訳ですから、同じように否応なく起こることではあるんですけどね。。

 

 ということを18時頃書いた。過去の日記を見ていたらまた丁寧語で書きたくなったのだった。