陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

兼好『徒然草』

 『徒然草』を読んだので感想を書きます。『方丈記』に続き新編日本古典文学全集所収。

 何書くかな。

 

 何と言っても序段が有名。

つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

 「あやし」も「ものぐるほし」も色んな意味があるので正直ニュアンスがよくわからない。「甚だしく狂ったような気持ちになる(熱が入ってくる、興が乗ってくる)」とも読めるし、「奇妙に馬鹿馬鹿しいような気持ちになる」とも読めるらしい。後者の方が素直な読み方なんだとか。

 

2013年時点でもまだ、序段の意味を問う研究があった。

atomi.repo.nii.ac.jp

 

 「つれづれなるままに」を加えてみてもいまいち意味が確定しない。「暇で、静かで、寂しい、所在ない、退屈な」状態を意味する語らしいが、そうすると

「特にすべきこともなく時間的・精神的余裕がたっぷりあったから、気の向くままに文章を書いてみました。何となく思いついたことを書いただけだけど、不思議と興が乗りました」

というようにも読めるし、また

「寂しくてやりきれない、どうしようもないような気分だ。そして何気なく書いてみたものも実につまらないことばかりで、我ながら馬鹿馬鹿しいような気持ちになる」

というほとんど逆の意味にもなりそうで、なんだか全然わからん。

 

 本書に付いている現代語訳では「我ながら何ともあやしく、もの狂おしい気持ちがすることである」って訳されてました。あまりにもそのまんまだけど、確かにこれが一番正確ね、と思ってちょっと笑えました。結局どんな気持ちだ?

 

 とにかくどういう気持ちだったにせよ「日くらし」これをやっていたというのは共通してますね。「日くらし」は日暮れ時のことではなく、一日中の意。一日中やってたってことは、つまり熱中してたんでしょうね。そこについては共感しやすいと思う。

 

 まあとにかく、この文章自体も「そこはかとなく(そこはこうだ、という明確な意図や目的もなく)」書いてる訳だから、あんまり意味を一つに特定しなくてもいいだろうとは思う。そこはかとなく何かを書きつけた経験は誰にでもあるだろうし、そういう経験から各々が連想した心境でもって読まれてきたからこそ、この文章はこんなに有名なんだろうと思うし。研究するんでなければ、まあ曖昧でいいでしょう。

 「徒然 ブログ」でググると夥しい量のブログがヒットするけど、それもこの文章自体の完成度の高さ、記憶の残りやすさに由来している訳ですね。実際ブログっぽいところはあるし。とりあえず何か書き留めている時、興に乗ってくると同時になんか馬鹿らしいことをしているような気持ちになるのは、どちらもよくわかる。何の意味もないことを書き連ねて自分で読むこと、流動的な心の内を外に、物質的に表出して固定することが楽しいんですね。書かれたものが私なので、私自身は空っぽになって、すっきりします。自分が何をやっているのか分からなくなり、それでも書かれたものはただ残る。誰かが読むべきものを生み出しているが、誰に読ませるでもない。調子はずれだが、しかし合わせるべき調子がない。それが自由で、何かが狂っているようでもあるが、同時に妙に心地よい。そんな感じの心境でしょう。私のことを言えば。

 

以下、その他の気に入ったとこ。めんどくさいから全部現代語訳で。。

 

74段

 蟻のように集って、東へ西へ急ぎ、南へ北へ走る。身分の高い人もあり、低い人もある。年とった人もあり、若い人もある。行く所があり、帰る家がある。夜には寝て、朝には起きる。忙しく働いているのは何事であるのか。やたらに長寿を願い、利益を求めてとどまるところがない。

 わが身の養生をして、何事を期待するのか。待ち受けるところは、ただ老いと死とだけである。老いと死の来ることは、速やかで、一瞬の間も休止することがない。

108段

 だから仏道の修行者は、遠い将来までの月日を惜しむようなことをしてはならない。現在の一瞬間が、むだに過ぎることを惜しむべきである。もし、人がやって来て、お前の命は明日必ず無くなるであろうと、告げ知らせてくれたような場合、今日の日の暮れるまでの間に、何を頼りにし、何事を努め励むであろうか。われわれの生きている今日という日も、明日は必ず死ぬと言われた、その時期と、どうして違いがあろうか。一日のうちに、飲食・便通・睡眠・言語・歩行など、やむをえないことで、多くの時間をなくしている。その残りの時間は、いくらもない。その間に、役にも立たぬことをし、役にも立たぬことを言い、役にも立たぬことを考えて、時間を過すだけでなく、日を過し月を経過して、一生をうかうかと送るのは、まったく愚かなことである。

93段

 だから、人は死を憎むならば、生命をたいせつにいとおしむべきである。生きながらえていることの喜びは、毎日楽しみ味わわないでよいものだろうか。愚かな人が、この生存の楽しみを忘れて、いたずらに苦労して、外的な楽しみを求め、この存命という財宝を忘れて、あぶなっかしくも他の財宝をむさぼるならば、願望は満たされることがない。生きている間、生命を楽しまないで、死期になって死を恐れるならば、矛盾していて、命ながらえていることの喜びを楽しむという道理は成り立つはずがない。人がみな生を楽しまないのは、死を恐れないからである。いや、死を恐れないのではなくて、死の近いことを忘れているからである。

 105段は、死が常に近づいてきていることを心に留めて、時間を大切にして生きろ、というような考え。これは飽くまで仏道修行からの極楽往生を当てこんだ発想であって、まあ現代でも似たような理屈で人生を大事にしましょうみたいなことは言われるけれども、そこまで説得力はない。お前は明日必ず死ぬって言われても、私なら別に何もしない。もし死後に「無」になるんだとしたら、この時々刻々を惜しんで有意義なことをしようとしまいと、結局それはどちらでも同じことになる。死が迅速にやってくるなら尚更だ。それに何らかの結果を当てこんでの努力というのはどこか脅迫的で、聞いていて苦しい。

 その点93段は105段とは毛色が違う。「役に立つことをしてこそ良い生になる」ではなく、「生そのものを楽しむべきである」っていう信念が前提になっている。こっちは現代にも通じる。要は「いずれ死ぬなら楽しまなきゃ損」という話だ。もちろん、死を恐れたからと言って生を楽しめるかというと微妙で、逆に死を恐れているからこそ生を楽しめないって立場とか、死も恐ろしいし生も恐ろしい状態っていうのはあり得る。内心で死にたいとは思ってるけど、踏ん切りがつかず死にきれない状態とか。

 まあとにかく、生きながらえていることそれ自体の喜び、というのが大事だ。「死を怖がるってことは、なんだかんだ言って生きてる方が良いと思ってるはずで、だったら生ってものをもっと楽しんでもいいじゃないの」というような理屈を言っているらしい。説得的だ。そんでその楽しみというのは外に向って齷齪することではなく、内に向かって常にそこにある財宝を見出すことであるべきだと。仏道修行も極楽往生も結局のところ「外的な楽しみ」だろう。そう見ると105段は浄土教だが、93段は禅に近い。

 

 で、内にある財宝を追求していくとこんな感じに。

 

75段

 なすこともなく所在ないさびしさをつらく思う人は、どんな気持なのだろう。心が他の事にまぎれることなくただ一人でいるのこそ、このうえない境地である。

 俗世間に順応すれば、心が外部の欲塵にとらえられて迷いやすく、人と交際すれば、言葉が他人の思惑に左右されて、そっくりそのまま、わが心でなくなる。

 

98段(『一言芳談』からの覚え書きらしい)

一、したものだろうか、しないでいたものだろうかと思うことは、たいていは、しないほうがよいものである。

一、来世での往生を願うような者は、ぬかみそ瓶一つも、持ってはならないことである。わが身話さず読誦しているお経や守り本尊までも、りっぱなものを持つのは、無益なことである。

一、出家遁世した人は、物がなくても不自由しない方法を心がけて暮すのが、いちばんよい生活の仕方であるのだ。

一、年功を積んだ上位の僧は、下位の者の心になり、知恵ある者は愚かな者の立場に立ち、金持は貧乏人の心を心とし、芸能ある人は無能な人の身になるべきである。

一、仏の道を願うというのは、特別のことではない。閑暇のある身になって、世俗のことを心にかけないのを、いちばんたいせつな道とする。

 こういうの読んでるとやっぱり隠居したくなる。もちろん何もしたくないんじゃなくて、自分のためのことをしたい。が、なかなかそうもいかない現実もあり、せめて限られた時間で有意義なことをせねばと思い、結局「内の財宝」だなどと言っていられなくなる。

 

188段

一生のうちに、主として望ましいようなことのなかで、どれがまさっているかと、よくよく考えくらべて、いちばん大事なことを考え定めて、そのほかは断念して、その一つのことだけに精励すべきである。一日のうち、また一時の間でも、多くの為すべきことがやってくるであろうなかで、少しでも利益の多いようなことを励み行い、そのほかのことを打ち捨てて、大事なことを急ぐべきである。どちらをも捨てまいと、心に執着するならば、一つの事も成就するはずがない。

わかってはいるんだが。

 

235段

 主人のいる家には、何の関係もない人が、思いのままに入って来ることはない。

・・・

われわれの心に、さまざまの思いが、勝手気ままにやってきて浮ぶのも、心という主人がいないせいであろうか。心に主人が、もしあったとすれば、胸のうちに、いろいろのことが入ってくることはないだろう。

 だから自分をしっかり持つべきだ、と言っているようにも読めるが、そんなことは不可能だ、と言っているようにも読める。仏教的には後者が正しい。

 

137段

花は、盛りに咲いているのだけを、月は一点のくもりもないのだけを見るものであろうか。雨に向って月を恋い慕い、簾を垂れた部屋に引きこもって、春がどこまで暮れていったのかを知らないのも、やはり、しみじみとした感じがし、情趣の深いものだ。今にも咲いてしまいそうな頃あいの桜の梢、花の散りしおれている庭などこそ、見どころの多いものである。

散歩に行こうかな、行ったら気持ちが良いだろうな、でも着替えるのめんどくさいな、とか考えている私も、情趣があって良いもんだろうか。あるいは、あれやらなきゃな、やったらきっと楽しいし、為になるだろうな、と思いつつ、体力が追いつかずやらない、というのも、それはそれで趣が、、……いやそういうことじゃないのは分かっている。私としては、やっぱり桜は満開が良い。月は別に曇ってても良いと思う。

 

157段

かりそめにでも仏典の一句を見れば、何ということもなく、その前後の経文も見える。そこでたちまち、長年のまちがいを改めることもある。

そうだ、とりあえず本を手に取ってみるということが大事だ。

 

……こんなところか。他にも面白いところはあったと思うがひとまずこれで。。