陰雑記

日記とか

自立とか言ってないでベーシックインカムやろうよ

 映画見てたら眠くなって寝て、起きたら日付変わってた。

 

 自立とは何か、っていったら、「一人で生きていけること」だということになるようです。特に親子関係でそう言われるようです。親に養われているようでは自立してない、親の家に住んでるようでは自立してない、とか。家を出てどこかに住処を見つけて、自分で金を稼いで、家事をやって、というのが自立ということの内容のようです。

 親に負担をかけさせてはならない、って考えがあるようですが、これはどういうことなんでしょう。というと、まず親と子は別の人間であること、成人した親と成人した子とは対等な関係でなければならないこと、が内容になります。大人が大人の世話になることは恥だとされています。なぜ恥なのか?というと、支払いをしてもらうのは迷惑をかけることだ、とか、あるいは支払いをしてもらうということは、支払った相手に借りを作ることで、借りを返せないことが恥なのだ、とか、はたまた借りを返せなかった場合、支払った相手に服従しなければならなくなる、それが恥なのだ、とか、なんかそんな話になるようです。こうなると段々怪しくなってきますよね。借りがあったら服従しないといけないの?なんで?ってなります。「あげちゃってもいいさ」って発想はないのか?と。

 「ニートは親に迷惑をかけている」って表現は、つまり「親に支払いをさせている」って意味ですが、それだけではなく「支払いをさせているにも拘らず、働かせたがっている親の言うことに従っていない」という意味の軽蔑が込められているように思うのです。あと「親に心配をかけさせている」とかもか。

 つまり貸し借りの関係がごく当然の倫理的関係として成立してるんですね。たぶんこういう風に思うのは、単純に貧乏だから、景気が悪いからなんでしょう。手元に1兆円あれば子供を敢えて働かせなければならないなんて考えないでしょうし。だから所謂ニートの問題を解決したかったらベーシックインカムをやればいいだけなんちゃうか?と思うんです。

 自立っていうのは経済的自立を言うので、手元に充分な金があるか、働いているか、というどちらかになります。現状働かずに収入を得る手段というのはほぼないですからね。不労所得を得るためにはもともと資産を持ってないといけないですし。それでその労働による自立ってやつなのですが、そもそも労働して商売して金を稼ぐのが自立であるっておかしくないですかね? お金を人から貰ってるのに何が自立なんでしょう。「経済的自立」ってそもそも概念として成り立つのか?っていうのは疑問です。それって本来、完全な狩猟採集生活、あるいは完全な自給自足の農業生活のことを言うんじゃないんでしょうか。お金を持ってないと何もできないし生きてもいけないシステムがあります、そして個人はお金を作れません、って時点でもう自立も糞もないと思うんですよ。

 そもそも商売をするってこと自体が、貸し借りに基づいてるんですよね。何かあげる代わりに何か貰わないと割に合わない、そしてあげるより貰う方が多くならないといけない、というのが商売の基本構造です。基本現代の先進国民(?)は全員商人です。だからケチです。なんでこんなケチになっちゃったの?っていったら、人口が増えすぎたり政治の規模が大きくなりすぎたりして、生産が追いつかなくなってたからです。要はみんな貧乏だったんですね。しかしそんな状況も、産業革命を経たりなんやかんやで解消されつつあるよね、というのが現代です。持続可能ななんちゃらとかも本来はその意味だと思います。貧困は撲滅されないといかんのです。

 国や政治の規模が大きくなると、大きくなった代わりに生産が追いつかなくなって貧乏になりケチになる、しかしそのことによってこそ生産技術は進歩し、つまり、「やっていける」ようになってくる、しかしやっていけるようになった後にも、富を独占されたら意味が無い、富を全員で分かち合わねばならない、では独占してるやつを殺そう!共産主義革命だ!とやってたのが少し前までの話で、現在では更に話が進んで、そんなことしなくても、もう物は充分あるんだからその物を循環させるための金を配れば良いだけだよね?という話になりかけています。……一部領域ではですけど。

 搾取してるやつを殺せばいいって発想は、金の量が有限でほっとくと全ての金が資本家に集まってしまう場合には妥当だとは思うんですが、今はそうじゃないです。この金の量が有限だっていうのがケチ臭さの根源だったわけですね。先人の培ってきた技術に加え、更に文化的に、金の運用方法そのものを改革することで、人類はこのケチ臭さをも克服しようとしているように見えます。「自立せよ」もただの残滓でしかないのです。今や生きてるだけで技術に頼ってるのに自立も糞もないでしょうと。あとはその技術にアクセスするだけの(文化的な生活ができるだけの)金を万人が持てるようにすればいいのです。そうすれば生存の心配もなくなり「自立」がどうとか下らんことは言わなくなるはずです。もちろんそれで全て解決、永遠に幸福というのではなくて、これからも歴史的に問題は起きまくるでしょうが、それはそれで対処していけばいいのです。

 普通に考えて、ケチ臭さを克服したら逆に放蕩に走ってしまう、それで結局何かが足りなくなって云々、というのがありそうですね。持続可能ななんちゃらもその辺を心配してるみたいですが、ちょっと気が早すぎます。むしろ要らない仕事が増えることで無駄な活動が多くなりすぎ、資源を無駄に消費しているのが現状です。そういうのはBIをやった上で本当に何か足りなくなったら考えればよろしい、と思います。