陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

人生の意味

 人生に意味があるかないかみたいなのは時たま話題になりますが、そんなもの無いのは全く自明のことですね。自明なんですが、そこで止まってしまうとつまらないです。何がつまらないかって、意味がないこと自体がつまらないんじゃなくて、「意味がないことは自明として、もしあるとしたらそれはどのようにでっち上げられるもんなのか」ということを、そもそも意味とは何かという点も含めて考え直すところまで行かないのがつまらないのです。「必ず意味はある!(意味はなければならない!)」派も「意味なんかねーよ(意味なんかあってはならない)」派もつまらないです。(「そんなことどうでもいいよ」派も最悪につまらないです。話が始まらないので。。それに人生の意味以上に重要なこともそうそうないでしょう。)

 自分で嘘だって分かってるなら、その嘘は健全な嘘です。むしろ嘘をついていることが分かっているということは、その嘘を選択したということでもあるのです。嘘ではないこと(嘘だと思われないこと)というのは、やむを得ないこととして、必死さの現れとして、必然性として生じてしまいます。それはただの囚われとなります。地に足がついていないからこそ見えるものもあります。しかしずっと浮いていたら変な人です。戻ってくることもできないといけません。行き来できることが重要です。それでこそ自由です。

 それにしても嘘をつくということが受け付けない人も多く、「意味がなければならない」派は「嘘の意味なんて虚しい!本当の意味を探そう!あるいは自分で決断して手にした意味こそ本当の意味です」とか言ってくるし、「意味などあってはならない派」は「嘘の意味なんて虚しい!それなら全く意味がないことを認めるだけで良いはず!」とか言ってくるし。嘘ほど豊饒なものも無いんですがね。「自分で決めた意味こそ本当の意味」も厄介で、これは「客観的意味とか超越的意味がないのは分かってるけど、まだ主観的意味付与が残っている!これこそ真の意味だ!」みたいな話なんですが、勝手に決めたことが真の意味な訳ないでしょう。それも嘘だって認めないとどこにも行けないですよ。

 しかし実際、「まあ嘘なんだけどね」っていう留保こそ自明だから誰も言わないだけかもしれないですね。嘘なのは自明だから誰も言わないだけで、「意味はある」派も「意味はない」派もとっくにそこは通過して分かった上で言ってる可能性はあります。嘘の自覚はその主体の内部でのみ成立しますからね。そう考えると「嘘であると認めるからこそ面白いんだ」ってことをわざわざ書いて主張することの方こそ稚拙かもしれないですね。まあ黙ってりゃいいんです。結局のところ意味なんてのは徹底的に内在的に、真なる他者の存在しない場所で孤独に消化されるしかないんですし。