陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

20240916月0458

1.よく寝れてる

 

 昨日は6時に寝て、今日は14時に起きた。21時から2時まで寝て、今5時前。睡眠を小分けにすると、入眠時の感覚を何度も味わえるのが素晴らしい。

 どこかのタイミングで散歩に行きたいな~と思っていたのだが、時間が惜しいような気がして行けてない。

 

2.どう労働しよう

 

 ちょっと抽象的に考え過ぎているところがあるから、もうちょい建設的に書いてみよう。抽象的な話は単に感情的な印象論に終始してしまうことが多い。

 状況は詰んでいる。どう詰んでいるのか? 先の見通しが立たない。この先やっていけるきがしない。やっていけるというか、やる気がしない。不安である。

 しかし「先の見通し」とは具体的に何か? 「これをやっておけば大丈夫、かつこれをやることが苦痛ではない」という生活手段が無いこと。つまり現状の仕事が苦痛であるということ。

 だから苦痛なのであれば他に移るか、苦痛でなくなるように工夫するか、状況が変わるのを待つか、いずれに思い切ればいい。

 ところで学生時代も、当時は当時で詰んでいたような気がする。でも最終的には「ついていける」ようになり、それなりのものを提出して出てくることができた。当時と今では何が違うか?

 1.まず周りにいる人間の数、関わる人間の数、その機会が全く違う。学生時代は基本自分一人で資料を漁って考えて、指定された日に発表するだけでよかった。

 2.期間が違う。学校の場合、取った授業は半年から1年で終了、数年で卒業、卒業できなくてもさらに数年で追い出されるが、労働者としての生活は、今の仕事がいつまで続くか分からず、全体としては下手すると死ぬまで続く。学校は卒業が終着点であり目標だが、労働は生活のためのことであり、定年退職すら目標ではない。

 3.やっていることの量が違う。学生時代に課されていた課題も正直興味がないものだったが、一日中時間を費やさないといけないようなものではなかった。趣味で学んでいたことをいくらか応用することもできた。今の仕事は基本が一日8時間以上拘束だし、実のところ終業してからも努力が求められている。

 4.立場が違う。学校というのは所詮金を払って勉強する場所だが、労働は金をもらって(脅迫されて)ノルマをこなす場所だ。

 じゃあ学生時代に状況を改善した経験が今まったく役に立たないかと言うと、そうでもないと思う。学生時代の中期に感じていた詰み感・絶望感は現状のそれにとてもよく似ている。状況は当時より悪いが、何かしら応用できるはずだ。何か重要なことを思い出すことから始めなければならん。

 

3.恥の文化とか

 

 罪の文化と恥の文化というのがどこまで妥当か分からんが、日本人の自殺に恥の感覚が強く関わっているのは確かだと思う。恥・汚名は行動によって返上されるべきものだが、それができないなら、隠す必要がある。存在自体が恥となった場合には、存在を隠さねばならない。ということで、失踪か、引きこもりか、自殺かということになる。

 罪の概念の方には、「隠す」という発想は無いように思う。罪を問われたなら、無罪を主張するか、むしろ罪を積極的に宣言して、償いをせねばならない。人が人を非難する場合、恥による時は、「お前を視界に入れたくもない」という形になる。罪による時は、「お前は償わねばならない」という形になる。罪の文化は人を排除せず、一人で消えていくことを要求しない。

 

4.思想家なんぞ知るか

 

 西の哲学者にしても東の宗教家にしても、彼らは世界や人生について考えることで生きていた人であって、賃金労働して生活の資を稼ぎながら生きてた訳じゃないんだよな。労働しながら考えるのはむしろ難行だ。実際に社会のど真ん中で苦難に喘ぎつつ生きていきながら、しかもそれについて考察しようなんてのは。そう考えると哲学者の苦悩だの宗教家の悲嘆だのいうのは全くお気楽なもんだ。奴らは物を考えてるだけなんだから。