陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

20240915日0555

1.思想

 

 14時に起きた。久々に気持ちに余裕があるような気もしたが、焦りも感じた。これからどう生きていったらよいものだろうかという焦りだ。最近ずっと感じている。

 やりたいことはシンプルだ。部屋に本がたくさんある。これらを全て読んで、考えて、自分の思想を完成したい。思想と言っても何処かに発表したりとか、それで他人を感心・感化させようとするものではなく、単に自分の死ぬまでの拠り所となるようなものを拵えたい。それはそこまで難しいことではないだろう。ある程度見通しは立っている。

 ただ、生来私には自信が無い、というか、一つの考え方・ものの見方を信じてそこに邁進する性癖を持っていないため、自分の考えに頼って生きていくということがどうにも難しく感じている。まあそもそも、自分の考えを持っている者などいないのかもしれない。誰もかれも他所から仕入れてきた知識をそのまま自分の考えとして所持して、それを固定的視座として堅持しているだけだ。元来考え方というのは単に道具であって、その場その場で都合の良いものを取捨選択していればよい。固定的にものを見ることができる人は精神的に揺らぐことは少ないだろうし、それは生存戦略として恐らく正しい。逆に「自分の考え」を完成させようとしている人は却って動揺しやすい。彼は常に考えを練って形成している途中にいるので、なるべく多様な考え方の例を取り入れようとするし、いくらかまとまったものを手にしてもすぐにそれを疑って相対化してしまう。概念は確かに固定されたものだが、それを用いて思想を作る人間の方は固定されていない。安定している人間は、思想を堅持するために自分の方も固定して生きることができるのだが、形成途上の人間は概念の間をふらふら動いてばかりで、落ち着くところがない。では、何をどうすれば彼は完成するのか? 結局他の人間と同じように或るものの見方を固定してそこに住もうというのであれば、それは彼には完成ではなく、停滞と映る。固定させずに完成を目指すとなれば、これはつまり何を意味するのか。私はどうしたいのか?

 このように考えると、私の思う完成とは、あらゆる考えを参照した上で、その中から一つを選択するということもなく、ただ流れに任せて最終的に行き着くところのことを言うのだと思う。私は多分、「決める」ということをしたくないのだ。「私は私の道を自分で選び取った」などと言いたくない。そう誇らしげに言う奴は多い。私は選びたくない。選ばされたいのだ。選んでもらいたいのだ。それでこそ自由というものだ。責任が無いということが。

 ところが世の中、責任を負うことこそ自由の証だと思う奴がたくさんいる。責任を負うということは、称賛されるか、非難されるかどちらかを選ぶということだ。そこでそのつど称賛される側に回るための決断をすることが、彼らの言う責任なのだ。それが要するに彼らの「世のため人のため」ということになるらしい。求められているのは世評と力だ。私はもっと、自閉的・自己完結的な自由が欲しい。

 

2.てなことを書きつつゲームしてたら夜が明けた

 哲学というのは大雑把に言って政治哲学方面と宗教哲学方面があるのだが、私は宗教哲学方面の方に寄っている。自分の置かれた社会的立場に悩むことは多々あるが、それを哲学的に考察したくはない。世の中のことは世の中のこととして扱うべきだ。

 

3.些細なこと

 

 仏教の思想の12『永遠のいのち〈日蓮〉』を読んでいたら、変な個所を見付けた。51頁に「日蓮は文応元年(一二六〇)七月十六日、宿谷左衛門尉光則を介して北条時頼のもとにこの『立正安国論』を上書したのである。時に時頼は三十九歳。」とあるが、その後86頁には「流罪は二年後の弘長三年二月二十二日に赦免となったが、ひそかに日蓮に好意をよせていたかに思われる最明寺入道時頼は、同じ年の十一月二十二日、三十七歳の若さで死んだ。」とあった。

 時頼について調べたら、弘長三年十一月二十二日に三十七歳で死んだ方が正しかった。『立正安国論』を上書された時はその3年前なので、三十四歳だったらしい。