陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

20240914土0234

1.寝るぜ

 

 なんか知らんが1週間終わった。21時終業。

 そろそろ私のタスクは無くなってきた感じだ。まだ色々問題は起きているのだが、やってることが高度で説明を要するため、もはや私には依頼されない。情けない話だが。まあ、来週からは早く終われるんじゃないかな。知らんけど。

 やることはないのだけど、周りは忙しそうで、私がやった作業の承認とかがされなかったことで21時まで残った感じだ。ぶっちゃけ大した作業をしていない。得していると考えるべきなのか? 何にせよ心象は悪いと思う。知らん。もうすぐおさらばだ。その次はどうなるか、これも知らん。どうでもいい。3連休が嬉しい。今日も今日とて、クソ眠かったことに変わりはない。たくさん寝る予定だ。12時間くらい。

 とりあえず今日は時間もあったので、目標管理クソシートをついに提出することができた。急に動けるようになるもんだなあ。

 

2.はあ、スキルビルダー、ですか。

 

 スキルビルダーの進捗状況を来週確認させろとかいう連絡が部長から来た。いよいよ尻に火が付いた感じで、目標管理クソシートを作成できたのもそれが理由だ。とりあえず、今月中にコンテンツを10個以上終わらせる宣言はした。そのくらいならできるんじゃねえかな。駄目かな。

 スキルビルダーね。やってねえよんなもん。「そんなのもあったなあ」くらいの感じだ。でも部長がメールに載せてた、俺と同じくスキルビルダーを受講している人たちの進捗状況見ると、完了させたコンテンツが0の人も多かったので、やや安心した。なあんだ、みんなやる気無いんじゃないか。

 

3.自由意志なんか無いです

 

 労働については本当に、全てが他人事という感じだ。自分の意志で参加した活動というよりは、運悪く巻き込まれてしまった災害だ。

 いや、これは単に比喩ではない。別にこの時代のこの場所のこの状況を選んで生まれた訳じゃないんだから。生まれが選べないってことは、生まれた後も選べないってことだ。「選択」ってのはただの言葉だ。最初に偶然与えられたものがその後の全てに影響する。

 ーーこういうのは因果の必然性を用いた決定論なのだが、別に因果を持ち出さなくても同じことが言える。というのも、今この瞬間、そして全ての瞬間が、生じては滅し生じては滅しというのを繰り返している訳だが、諸瞬間の間には何の関係性も成り立たないからだ。瞬間は断絶している。連続は、一つの瞬間の内部にしかない。一つの瞬間の内的分節が時間なのだ。時間の中に瞬間があるのではない。よって瞬間は常に断絶している。

 もちろん、本当に断絶しているのなら「常に」とは言えないはずだから、完全な断絶ではなく、連続もしている。ただその連続もまた、唯一絶対の現実であるこの一瞬間においてしか存在し得ないということだ。瞬間は唯一絶対で、断絶しており、かつ他の瞬間を前提し、複数である。過去も未来も一瞬間に収まるが、その一瞬間もまた即座に滅し、新たな瞬間に存在を譲る。

 早い話が、物事は流動している。ただ流動の中の瞬間相互に何らかの必然的関係を規定するのは不可能だ、ということだ。相互に断絶した瞬間の絶えざる生起がこの流動なのだから、流動の方向は予め決定されていないし、何かによって選択もされない。

 つまり、「生まれを選ぶことができない」ということは、そのままこの瞬間の生起についての話にシフトできるのだ。私は今この瞬間に何をするかを選んでいない。だから一切の過去においても、未来においても、選んでいない。瞬間は常に一つの出たとこ勝負だ。私の意志を認める場合、まず或る瞬間があり、そこに私の意志があり、その意志が力を持って、次の瞬間における或る結果を引き起こす、というこのような過程が必要となる。無論そのような過程は無い。私が何かを思った瞬間と、その思いが動きを引き起こしたとされる瞬間とは別である以上、断絶しているからだ。別の側面から言えば、「私の意志によって引き起こされた」という認識自体が、無根拠に生じる瞬間の内部においてしか与えられ得ないからだ。

 唯一絶対のこの今には、文字通りの存在する全てが含まれている。今が生起した理由は、今に含まれている。だから今には根拠が無いのだ。原因は無い。意志も無い。引き起こすものも引き起こされるものも無い。

 ということで、何の話だったか。労働は他人事という話だった。これは別に労働に限った話ではないが。ただ物事には、私の意志によって生じたと見做した方が良いことと、そう見做さない方が良いことがある。そこで一つ疑念が湧く。「原因は無い」「意志は無い」と説くこと自体の背後に、そのように認識することによって何らかの利を得ようとしている意志が存在するのではないか?と。

 ということでここにまた別種の意志の概念が、即ち或る瞬間において次の瞬間を生起させる意志ではなく、瞬間において瞬間自身を解釈する意志の概念が出てくることになる。しかし瞬間における意志とは無根拠な意志であるから、たとえそのような意志の存在を認めたところで、最早その意志は「自由な」意志ではない。なのでやはりそこに選択の自由は存在しないのだという点に変わりは無い。かくして一言で言えば、「意志は意志であり、意志ではない」ということに尽きる。

 無根拠に生起する意志というのは超越的にはこの上なく自由な(無限の可能性の中から何故か一つだけ実現される)意志なのではあるが、内在的には単なる強制に過ぎない。で、私は内在する存在者なので、当然この強制に服している。だから私は自由ではないのだ。