陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

疲れについて。

 凹んでいたり疲れていたりする人がいたら、心配したり同情したりしながらとりあえずそっとしておいて、様子を見守るのが普通の優しさだと思う。

 しかし実際に元気のない人間である私から見ると、そういう普通の優しさよりはもう少し積極的に、「元気付けようとする」とか「発破をかける」とか「敢えて厳しいことを言う」とかがむしろ一般的で、それこそが「本当の優しさ」である、みたいな見解が目立つように思う。

 これは何なのか。何故そっちの方が「本当」なのか、と考えるに、大抵の人間にとって他人というのは有用/無用、有能/無能というような軸で評価すべきものであって、元気の無い人間より元気のある人間の方が役に立ちやすいから、そういう方向に持って行きたがるのではないかと思った。疲れてたり死にたがってたりする人間って、使えなさそうじゃん。

 

 一方で他人をそのようなエゴイスティックで打算的な目で見るのは良くないことだという規範も共有されているため、「これは俺の優しさなんだ。本人が元気を出す(使える人間になる)手伝いをしてやってるんだ!」という心理的隠蔽がなされる。そして善良な市井の人々は、理由を探り、協力して、解決しようとするのだ。ついでに自分の有能さをアピールできればなお良い。

 具体的理由が見つかればまだ良いが、さしたる理由なく(あるいは解決困難な「重い」理由で・・・生きることに疲れたとか、労働することに疲れたとか)疲労していることが分かると、激しく苛立ちを感じるらしい。

 疲れていることは罪であり、何らかの釈明を必要とする。

 

 私についてのことでなくても、例えばうつ病の人に対する風評を聞いても分かるが、弱っている人間は基本的には攻撃対象になるようだ。世の中そういうもんなのかもしれん。学生時代まではろくに人付き合いがなかったから気付かなかったが。

 

 だから自衛のために元気な姿を見せるようにしよう、となるのだな。他人に弱みを見せるのは危険なのだ。

 そして元気が無くても元気なふりをするようになると、今度は元気なふりをしない奴のことを不快に思うようになる、という作用がある。「俺は我慢しているのにずるい」という。