陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

原因の前提

 数日前に、原因についての話を書いた。

 全ては物理的に繋がり、制約し合っているので、全てが全ての原因であり、何処にも原因は無い。

 このことはただの前提であって、この前提を踏まえてこそ「では実際に世界内のどの部分を事象の真の原因と見做し、責任を追及するべきなのか」という議論が可能になる。

 この前提なしでいきなり原因の確定に走ろうとすると、対象が人間である場合責任追及が苛烈になり過ぎたり、あるいは「人の振る舞いは遺伝によるのか環境によるのか本人の意志によるのか」(もちろん原因はそれら全てであり、かつそれらのいずれでもない)「いじめられっ子にも原因はあるのか、ないのか」(もちろん原因はあり、かつない)というような不毛な議論を呼び込むことになったりする。

 それを煮詰めた時に生じてくるのが、昨今の自己責任論とその反対論だ。前者は「自分の人生は自分でなんとかできるだろう」主義で、「だから福祉は要らないよね」に繋がる。後者は「自分の人生と言っても強制された遺伝と環境によって決まるので、苦境の責任は本人には無い」主義で、「だから福祉をくれ/金をくれ/安楽死をくれ・・・」に繋がる。

 自己責任論もその反対論も本来ただの方便であって、人が救われるのならどちらでもいい。そのつど適切に使い分けられるべきものが、客観的真理であるかのように流通しているのが一番恐ろしい、というか気色が悪い。

 まあどちらの方便がより優れているかと言えば、そりゃ困窮者を助ける方が手っ取り早いし、社会の存在意義に適っているとは思うのだが。現代日本の自己責任論って結局でっち上げられた財政難から来るものだし。