陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

道徳と真理

 人間の基本的な情動は「~したい」だ。これを集団化して、「みんなで~したい」にすると、それは「~すべきだ」「~するものだ」に変異する。この集団化はどのようになされるのか?

 一人の人間には確信があるだけだ。確信というより、端的な事実があるだけだ。つまり単純に「~したい」ということが、同時に「~すべき」だということになる。複数人になると、人間というのは気兼ねするもの、より適切に言い換えると「集団の中で適切な振る舞いを探すもの」であるから、欲求が相対化される。単純な「~したい」の前に、「~してもよいかどうか」が挟まってくる。

 「~してもよいかどうか」は他者からの承認によって決まる。二人が同意し同じ利害を持つときに、欲求は正当化される。承認されない欲求は、「~すべからず」という消極的規範となる。また逆に「~したくない」という欲求が承認されなかった場合は、「~せねばならない」という積極的規範が生じる。

 ということで、道徳が生じる。道徳とは「他者からの承認を条件とする種類の真理」である。道徳は徹頭徹尾、対他関係においてある。道徳的に何が真理であり何が非真理であるかは、他者から承認されるか否かによって決まる。道徳は公共的だ。

 ところで、一見道徳的でないような真理、例えば自然科学的な、客観的な真理もまた、実は道徳的な真理である。何故なら「~である」と宣言することは、「~であるに違いない」「~でなければならない」、そして「~であると考えるべきである」「~と見做すべきである」等々のことを必ず含意するからだ。かくして学問は公共的なのだ。それは普遍的真理を探るものだが、普遍性は道徳的だ。それは公共のものであり、多人数による同意によって真理となる。

 ということで、真理は公共的概念だということになる。真理は人間関係によって生じる。で、人間関係というのは複雑なので、当然真理も複雑となる。個人の様々な確信や懐疑が絡み合ってそれぞれの真理を作っていく。大雑把な、しかし複雑な権力関係が何処にでも存在している。他者は内面化され、個人の内心においてさえ葛藤=権力関係が存在する。

 ……というのが基本的な真理観だ。真理のこの公共性を打破して、個人の確信を真理へ高める方向へ進むと実存主義が出てくる。あるいは独我論。世界は私にとっての世界でしかないのに、真理に承認が必要なのか? 一々承認が必要な真理などというものは、本当に真理なのか? という問い。独我論が忌避されるのは、公共性を踏み倒すため、独我論者は何をするか分からないからだ。傍から見ると恐ろしいーー「だから独我論は真理ではない」、とこう持っていくのが普通の道徳的立場だ。