陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

仏教の概要メモ

 仏教と言えば世俗的には、「全ては因果関係によって生じる」というのが基本命題として理解されている。だから仏教哲学は科学的だとも言われる。

 ただし重要なのは、仏教は輪廻からの解脱を説く宗教であり、輪廻からの解脱とは、因果からの解脱でもある、ということだ。だから仏教において、最終的には因果は否定されるのだ。この、因果関係の必然性から一歩踏み出すところが仏教の優れたところであって、これを忘れるとただの機械論になってしまう。因果関係は飽くまで世俗の真理であって、勝義の、最も重要な真理ではない。

 ただ、因果を否定するだけでは駄目で、因果を否定した後は、再び因果に戻ってこなければならない。因果の実在を信じ通すのはいわゆる常見、否定し通してしまうのはいわゆる断見であって、不徹底な態度とされる。なぜなら、最重要な真理である「輪廻からの解脱=因果からの解脱」は、更に「=分別からの解脱」でもあるからだ。

 そもそも、虚心に見れば、存在しているのは「一個の流れ」だけだ。単にこのように現われ、このように現われ、このように現われ、、という流れがあるだけだ。これを無常と言う。ただ、単に流れているだけの無常を分断して、「これが原因、これが結果、、」というように分けて考えることによって因果関係なるものが存在するようになるというのが仏教の基本的な考え方だ。

 分けるから有るのであって、分けなければ無い。分けない状態が解脱だ。分けなければ因果も輪廻も、快苦も幸不幸も無い。ということは、分けなければ輪廻と解脱の対立もまた無い、ということになる。ということは、結論としては、「輪廻=解脱」となる。輪廻も解脱も無い。どっちも同じだ。だから、因果が無いということは、そのまま因果が有るということだ、というところまで論理が進む。これがいわゆる生死即涅槃とか煩悩即菩提とか言われるものだ。「即」の字は単にイコールとも取れるし、「生死は涅槃に即す」とも取れる。分別しないのであれば両者は共に同じところを指すことになるし、分別するのであれば、両者は互いに依存することによってのみ存在する、仮のものだということになる。この関係性を縁起という。