陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

昼に起きた。

 今日は父の機嫌が若干怪しい。ゴルフ疲れか?

 

 読書した。柳宗悦南無阿弥陀仏』は大体読み終わった。感銘も受けるが、欺瞞も感じる。一遍上人の思想は結構なんだが、実際重要なのは上人が札を配ったことではなく、札を配られた人が実際救われたかどうかだろう。念仏は万人を救う思想だと言うのだが、結局信じる者は救われるけど、信じなかったら救われない。他力と言っても主体性は要求されるのだ。信・不信を超えた救済とは言うが、それもやっぱり信者側からの理屈でしかない。

 

 両親はなんか買い物に行った。風呂場の椅子を買ってきたらしい。ちょっと低すぎるやつだ。大丈夫かな。高い分には問題ないけど、低いやつは立ち上がるの大変じゃない?

 

 風呂に入った。暑い!けどじっくり入ってしまう。出た後の汗がやばかった。

 

 夜は唐揚げ作ってもらった。父の機嫌は割と良くなっていた。

 

 Youtubeで『モノノ怪』が2日間限定で公開されていたのでちょっと見た。鵺の話が好き。次点で海坊主。

 

 右耳に垢が溜まってるのか、ガッサガサいっている。でもほじくっても何も取れない。

 

 神や仏を信じる・頼る・すがることに対してよくある反応は「いないものを頼るなんて馬鹿だなあ」というもので、これは一理ある。信仰者が実在する神仏を頼っている場合は確かに馬鹿だ。

 ただ、信仰者自身も実際のところ神仏の実在を信じていない場合、これは馬鹿どころか、何かすごいことをやっているように思われる。つまりその場合、「神仏に頼ります」ということは結局、「何にも頼りません」という意味になるからだ。いないものを、いないままに信じるならこうなる。

 信仰者は確かに、事の成り行きの全てを神仏に委託する。なので信仰者が「自力で何とかします」と言うことではない。自力でもないし、他力でもないのだ。「全てこれで良い」ということが、この場合に神仏を頼ることの意味となる。

 実際のところこれが最も正しい信仰だと私は思う。実在する神仏の概念は、全てこの現実肯定の捻じ曲がった姿だとすら言える。神仏はいないから尊いのだ。いないものを信じるのが知的であり、最も良い。