陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

6時間睡眠。

 リッチミン飲んだ。

 

 植木屋さんが来たらしい。庭木が刈られていた。20年くらい前にこの家に引っ越してきて、両親が無計画に植えまくった植木。割と無秩序だが、茂っているとけっこう綺麗で愛着がある。しかし維持費は大分かかってそうだ。将来両親がいなくなって私が管理するようになったら、維持できる金がないような気がする。最終的に全部伐採することにもなるかもしれん。考えると気が滅入る。

 

 今日から本格的な作業が始まった。スプリントプランニングとか。

 作業が割り振られた。最初は簡単なAP開発なのでなんとかなりそう。

 ストーリーポイントの見積も、先週は相場が全く分からず周囲との乖離が酷かったが、割と掠るようになった。

 

 なんやかんやで一日あたり一時間くらい残業してしまっている。なんかチームに残業を躊躇わないような雰囲気がある。普通に定時後に連絡事項とか入ってくるし。

 

 とにかく19時半には終業し、なんやかんや20時くらいまで作業はし、羊羹食ってお茶飲んで、風呂に入った。夜ご飯は鮭。

 

 自分が無宗教だと主張することを普通とする集団があるなら、その言辞こそ正に宗教的だよなあと思った。宗教は文化・行動様式そのものだ。風習も論理も所詮は信仰だ。無宗教は宗教の一種。

 でも行動様式=宗教と考えると、宗教の集団指向的側面ばかりが強調されるので、それはそれで良くないと思った。真剣な信仰は個人的なもの、というか孤独に突き詰めていくものであるはずだ。信念とも言うが。

 というように宗教という言葉はとても曖昧で広大なので、今自分がどういう宗教概念について話しているのか整理しておくことが重要だと思った。

 

 個人にせよ集団にせよ思想に凝り固まっていると不気味だし危険だ。ただまともな宗教なら自分の信仰をある程度相対化する知恵も持っているはずだ。教えに囚われれば本末転倒だということの自覚はあるはず。だから宗教=盲信、非宗教=寛容という認識も怪しい。むしろ寛容に執着するのは不寛容の一種だし、その葛藤自体がすでに宗教の枠内だろうという気もする。宗教と非宗教が対立するのではなく、その対立自体が大枠の宗教でしかない。