陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

高校時代

 なんか昨日の夜寝るタイミングを逃してぼんやり考えてたらすごい不安になったんだよなあ。将来の不安。自己像・評価。社会。他者との比較。重荷。

 

 基本的に悩みの内容が高校時代から変わってないような気がします。置かれた状況があります、その状況ではこれ(受験勉強、仕事)をやらないといけないことになっていますが、やりたくないです、やりたくないなら他所へ行くという選択肢もあるが、どうにか耐えて半分適応しつつ、半分てきとーにやる、という感じになります。しかし周囲と齟齬があって居心地が悪い。その状況において、やらなきゃいけないこととは別に心の支え・避難所(部活動、読書や勉強)はあり、そっちに一生懸命なんだけどそれでは誤魔化しきれず、本当に勝負すべき場から逃げているだけのようにも思える。でも所詮茶番だし、構造的に強制されてる部分もあるし、何でも「それなりに」やれれば上々だろう、って当時も考えてたような。

 

 当時やりたくなかったことは勉強なのに、今逃げ込んでいるのは勉強なんだからおかしなもんだ。今高校時代に戻れたら、というかあの高校には戻りたくないので、入る前の中学時代に戻りたいのだが、多分一生懸命自主的に勉強するだろうなあ。今思えば重要な時期だった。転換したのは大学で、部活動の延長でやってた楽器が全然うまくいかなくなって本当に人生が何なのか分からなくなり勉強するようになって、、じゃあ今度は勉強が一切うまくいかなくなってどうでもよくなれば、仕事に打ち込むようになるのかもな? これで言えば数年後に仕事人間になり果てていてもおかしくはない。。

 

  今も大概だが、一番頭がおかしかったのはやっぱり高校時代だなあ。まともに会話ができなかった。他人から何を言われてるのかも、自分が何を言ってるのかも分かってなかったと思う。それはシンプルに物を知らなかったし、考えるってことを教わってなかったし、だから自発性ってものが皆無に等しく、総じて未熟だった(周りの同年代と比べても未熟だった)という話だとは思う。そもそも高校も自分で選ばなかったし。それはそれとして、環境が悪すぎてどう対応したらいいか分からなくなっていた。

 よほど強く頭を打つとか病気でやられるとかしない限り人間の基本的な人格は死ぬまで変わらないと思うが、人格というのはつまり全ての行動の総計をいうのだし、行動は脳味噌の作りと環境との組み合わせで出力されるので、同じ人間でも環境が違えば全く違う行動を取る=人格を持つのだ。それでたぶん高校時代の私と今の私で基本的な脳味噌の構造は変わっていないはずだが、まあ、、高校の環境は私と相性が悪すぎた。何が駄目だったのか?と今考えるに、うーん、何かこう、ノリがきつかったっていうのが一番だろうなあ。中高一貫進学校に高校から入ったのがまずかった。内部生の方では3年間の教育を経て既に妙なノリ・空気・勢いが出来上がっており、外部性を意識することでそれがより強固になる。そこに合わせていかないといけなかった。郷に従えの精神でそれなりに上っ面だけ合わせることはできたのだが、それ以上をぐいぐい求めてこられたのできつかった、と。

 うーん。さらにその内部生の空気を作ったのは学校全体の空気なんだが、受験が第一で、その他はまあ部活動とかも大事だ、みたいなことは形式的には言ってたが、飽くまで「勉強の疲れをリフレッシュするため」だの「気分転換が必要だから」だのの理由が一々ついていて、それ自体のために活動するって雰囲気はなかったんだよな。もっとこう、学校ってのは多元的な空間であるべきだと今は思うし、そういう学校に行くべきだったと思う。ああいう空間は不健全だ。人格が歪む。現に歪んでいた。だから誰とも話ができなかったのだ。まあそれは今もだが。でも職業ってちょっとあの学校に似てるところはあるな、と感じている。やる気ないなら転校したら?とは言われたしなあ。3者面談で。しかしそんな手続きもめんどくさく、なんやかんやで適応しないまま引きずられるように3年過ごし、、と、やっぱり今も同じことを繰り返している。

 とりとめがない。続きは明日考えるか。。