陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

殺人が合法になったら

 「功利主義的には、殺人の全面合法化が合理的なのではないか」と主張している人がいた。流石にそれはないだろう。殺人が合法になったら、人が死んだとき、他殺だと分かった時点で捜査が打ち切られることになる。犯人が分からなくなるので、殺し放題になる。治安が悪化する。警察が動かないから、市民が自己防衛するしかなくなるが、そのためのコストがかかる。全体的に不安な政情になる。あるいは犯人が分からないので、適当にその辺にいる怪しい奴を犯人扱いしてみんなで殺すことになる。全体として殺伐とする。そもそも、誰も殺されたくはないし、自分が殺されるリスクを負ってまで人を殺したい人というのも少数派であって、全然功利主義に即していない。

 ……いや、そういうことではないらしい。その人が言いたいのは、功利主義的に見れば、10人の幸福のために1人を殺すことは許容されるべきだ、ということのようだった。社会って現実にそう回ってるじゃん?という。例えばクラスで1人がいじめられている場合、困るのがその1人だけなら、他の人はそれを放置しておくのが合理的と言えば合理的だ。危害が自分に及ばないわけだから。そういう状況は一概に倫理的に悪だとは言えない。それでその1人が死んでしまっても、それで10人の未来を台無しにするのは功利的に不合理だということらしい。……が、これもやはりおかしい。確かにそのクラスの中では功利主義的な規範は成り立っているのだが、そのクラスを出たら、そういう状況は一般的に不快なものだし、そうあるべきかと問われれば間違いなく否定される。大体、功利主義というのは単純な多数決ではなく、抽象的な幸福度を測らねばならないものだ。1人が被る苦痛と10人が感じる快楽とを単純に比較できるかというと、できない。だから最大多数の最大幸福というのが結局何なのかは誰にも分からんのだ。それは恣意的に決められるしかない。