陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

幸福

 「こうすると幸福になれます」みたいなのは度々耳にする。曰く「今ここに集中すると幸福になれる」「何事にも感謝をすると幸福になれる」「貢献すると幸福になれる」「目標を持つと幸福になれる」「考え方を変えると幸福になれる」「筋トレをすると幸福になれる」云々。

 ただこれらを見て思うのは、これらは幸福な人の幸福を分析した結果に過ぎないのであって、「これをやったら幸福になれる」という方法論として提示するのはおかしいのではないか? 今ここに集中して幸福になれるのは、今ここが「元々」幸福だった場合だけなのではなかろうか。今ここが虚しかったらどうするのか。或いは死ぬほど腹が痛い時に今ここに集中したら、幸福になれるのか?

 他人に感謝したり貢献したり、目標を追いかけたり筋トレをしたりして幸福になれる人というのは、「元々」幸福な人なのではなかろうか。そもそも感謝できること、貢献できる能力があること、筋トレする気力があること等々は、それ自体が幸福の証なのであって、幸福に先立つものではないのではないか? ということは、不幸な人間が幸福になる方法というのは無く、ただ偶然にそうなるしかないのではないか?

 もしそうなら、それとは逆に、ただ偶然に突如として不幸になることもあるということになる。人間は幸不幸をそもそも自由にできないのではないか? 幸福論というのはそういう突然の不幸を恐れるが故の誤魔化し、根拠付けに過ぎないのではないか?

 もしそうなら、それとは逆に、ただ偶然に突如として幸福になることをも、期待していいはずだ。不幸な人間の希望はそこにしかないのではないか?